血と束縛と

北川とも

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第39話

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「だったら、言いたくなったら言え。色っぽい隠し事なら暴いてやりたくなるが、それ以外は、先生の誠意として話してくれたらいい」
 廊下を歩いているうちに、次第にいい匂いが漂ってくる。出汁の匂いだとわかった途端、和彦は強い空腹を覚えた。昨日からまともに食事をとっていないのだから仕方ないが、自分の正直な反応に呆れる。それと同時に、本宅にいて少し気が緩んだのだろうかとも思う。
 目が覚めて、千尋の無防備な寝顔を見て、油断ならない賢吾と心の中をまさぐられるような会話を交わして。
「ヤクザが、誠意なんて言葉を使うな……」
 賢吾に聞こえないよう小声で呟いたつもりだが、しっかりと耳に届いたらしい。さらりとこう返された。
「いつもの調子が出てきたな、先生」
 和彦が唇をへの字に曲げると、賢吾に肩をぽんぽんと叩かれる。
「笠野がはりきって朝メシを作っていたから、しっかり食えよ。……本当なら、今日ぐらいクリニックを休めと言いたいところだがな」
「いい加減なことはできない。あんたが持たせてくれたクリニックだし」
 賢吾が何か言いかけたが、その前に、廊下を慌ただしく駆けてくる足音が近づいてくる。姿を見る前に、正体がわかった。
 廊下の角を曲がった千尋が、二人に気づいてパッと目を見開く。驚いたのは、千尋が次の瞬間、泣きそうな顔をしたからだ。大股で和彦の側までやってくると、いきなり手を握り締められた。
「どうかしたのか、千尋?」
「起きたら、先生いなかったから……。帰ったのかと思った。先生の実家に」
 顔を強張らせる和彦に、長嶺の男二人は強い視線を向けてくる。和彦の返事次第では、平気で監禁ぐらいしてしまいそうな迫力だ。
 本当に物騒な男たちだと、和彦はそっと息を吐き出す。握り締められた手を抜き取り、千尋の頬を軽く抓り上げた。
「そんなわけ、ないだろ。考えてもいなかった。……お前、そんなことを心配して、ぼくの側で寝ていたのか」
「だっていきなり、先生が父親と会っていたなんて聞かされたら、びっくりするし、不安にもなるよ」
 千尋らしくない所在なさげな様子に、できることなら丁寧に説明したいところだが、実のところ和彦自身もまだ、気持ちも頭も整理できていない。
 なんと答えようかと考えながら千尋の頬を撫でていると、賢吾が間に入ってこう提案してきた。
「じっくり話すのは、何も今じゃなくていいだろ。先生は、仕事に行く前にしっかりと朝メシを食え。千尋、お前もだ。俺は――〈総和会会長〉に今日会って話がしたいと、アポを入れなきゃな」
 賢吾の声は、不気味なほど穏やかだった。胸中で吹き荒れる感情を、徹底して押し殺しているかのように。
 和彦がおそるおそる見遣ると、今度は賢吾が、和彦の頬を撫でてきた。
「オヤジはきっと、先生からの報告を聞きたがる。寝込んじまったならともかく、クリニックに出勤したとなると、今日中に本部に顔を出せと言うぞ」
「……わかってる。もともと、そのつもりだった。あんたから、会長に伝えておいてもらえないか」
 ああ、と答えた賢吾の手が、後頭部にかかる。何事かと思ったときには、こめかみに唇が軽く押し当てられ、すぐに離れた。思いがけない行動に、和彦だけではなく、間近で見ていた千尋まで驚きで目を見開く。
「側にはいてやれないが、すぐに先生を帰すよう、オヤジには言っておく。……クリニックのほうは、少しでもつらいと思ったら、閉めて帰ってこい。クリニックの看板より、先生のほうが大事だ」
 こんなことを言われると、和彦としては困る。このまま賢吾の側にいたいと思ってしまうのだ。そんな想いを振り切るように、賢吾に対してこう答えた。
「――……ぼくは、大丈夫だ」


 日中の和彦の行動は、普段通りだった。予約を入れていた患者に対してカウンセリングや施術を行い、スタッフに対して指示を出す。美容外科医としての日常だ。
 忙しく立ち働いていると、昨日、自分の身に起こったことがすべて夢のように思えてきて、そんなはずはないと自分に言い聞かせることの繰り返しで、なんとも不思議な感覚だった。
 我ながら浮き足立っていると戸惑っていた和彦を、現実の世界へと引き戻したのは、昼の休憩中に賢吾から入ったメールだった。
 夕方、総和会本部で守光と会えるよう段取りをつけたという内容で、簡潔な文面を見た途端、和彦は胃の辺りが重苦しくなるのを感じた。
 しかし逃げるわけにはいかない。すっかり磨滅してしまったと思っていた勇気は、一晩休んだことでわずかばかり復活したらしく、おかげで和彦は、クリニックを出て総和会からの迎えの車を目にしても、表情を変えることなく乗り込むことができた。

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