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第38話
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「責めているのか? 人並み以上のものは与えてきただろう。お前もわたしに従って、結局のところ安穏とした医者としての生活を手に入れ、満喫していた。長嶺の人間と知り合わなければ、おそらく今も。お前は結局、自分を満たしてくれる環境を与えてくれるのであれば、相手は誰だっていいんだ」
「そんなことはないっ」
和彦が声を荒らげると、俊哉は軽く眉をひそめる。だが次の瞬間には、極上の優しい笑みを浮かべた。ただし和彦にとっては、底知れない俊哉の闇を感じる恐ろしい表情だ。
かつて俊哉は、こんな表情を浮かべながら――。
古い記憶が刺激され、軽い吐き気を催す。無意識に和彦は口元に手をやり、必死に実の父親から目を背けていた。
この感覚があるから、何があっても自分は俊哉に逆らえないと思ってしまう。骨身に刻みつけられるどころか、体中に流れる血に、細胞に、俊哉への恐怖が組み込まれているのだ。だから、会いたくなかった。
「――定期的にお前と会う機会を作らせる」
じっと考え込んでいた和彦は、何か大事なことを言われた気がして我に返る。
「えっ?」
「息子の身を案じる父親としては当然の要求だ。わたしと交渉をしたいなら、向こうも呑まざるをえないだろう」
化け狐と腹の探り合いだと、どこか楽しげに俊哉は呟いた。
「……会いたくないというぼくの要求は、当然通らないんだろうね」
「上手く立ち回れ、和彦。今は紳士ぶっている連中だが、お前をわたしに取り上げられるかもしれないとわかった途端、どんな極道らしい手口を使ってくるかしれない。お前は野獣どもの中でがんばって、自分だけじゃなく、わたしも守るんだ。言う通りにできたら、褒美をやろう」
このとき自分がどんな表情を浮かべたのか、和彦には自覚はなかった。ただ俊哉は短く声を洩らして笑ってから、スマートな動作で立ち上がる。和彦の目の前に立つと、スッと耳元に顔を寄せて言った。
「お前は、特別な息子だ。英俊よりも。だから、〈父さん〉が言いたいことはわかっているな?」
和彦は震えを帯びた声で、俊哉が求める答えを口にする。
「ぼくは――」
靴音を響かせて俊哉は去っていった。
和彦は、魂が抜けてしまったような虚脱感に全身を支配されていた。ベンチに腰掛けたまま半ば呆然として、さきほどまでの俊哉とのやり取りを思い返す。それは苦行に近い作業だが、自分は何か重要な言葉を聞き洩らしたのではないかと、不安で仕方なかったのだ。
やはり会うべきではなかったと、後悔を噛み締める。俊哉と話してみて痛感したが、すべてを知りながら、和彦の身柄を巡って一歩も引くつもりはない。父親としての強い情に駆られてのことという一面は確かにあるだろうが、それだけではない。そう断言できる程度には、和彦は俊哉という人物を知っていた。
さきほど話していた口ぶりでは、和彦を通して、守光を手玉に取ろうと企んでいる節すらある。
ゾッとして身を震わせたあとで和彦は、自分の迂闊さを口中で罵っていた。
俊哉に直接、昔、守光との間に何があったのか尋ねようと思っていたのに、できなかったのだ。怒っている素振りを一切見せなかった俊哉に、それでも委縮してしまった。
ほんの三十分、隣り合って話していただけなのに、和彦の精神力は限界まで消耗していた。これまで男たちに注がれてきた激しくも優しい情愛すら奪い取られたように思え、そう感じる自分に、心底恐怖する。
「……気持ち悪い……」
再び込み上げてきた吐き気に、口元をてのひらで覆う。そこに、総和会の護衛の男がさりげなく近づいてきた。
「佐伯俊哉氏は、通りからタクシーに乗ったそうです。我々も帰りましょう」
のろのろと頷いた和彦は立ち上がろうとしたが、体がふらついてベンチに手をつく。素早く男に片腕を取られて支えられた。
「大丈夫ですか?」
「……体が冷えたみたいで。少し気分が悪い、です……」
「でしたら、急いで車に」
足元が覚束ない和彦は腰を抱えられるようにして、やや強引に歩かされる。駐車場で待機していた車の後部座席に乗り込むと、速やかに車は動き出した。
「これから、どこに?」
預けていた携帯電話をコートのポケットに入れてから、和彦は問いかける。答えはわかりきったものだった。
「本部にお連れするよう、言いつけられています」
「ああ、そうか……」
守光に、俊哉と話した内容を報告しなくてはならない。もちろん、言われたことすべてではなく、和彦が選別する必要がある。薄々察しているにせよ、鷹津と俊哉が通じていることも、隠さなくてはならないだろう。
守光と向き合って、また神経を擦り減らすことになるのかと考えた途端、和彦は限界を迎えた。
「――今日は、マンションに戻ります」
「そんなことはないっ」
和彦が声を荒らげると、俊哉は軽く眉をひそめる。だが次の瞬間には、極上の優しい笑みを浮かべた。ただし和彦にとっては、底知れない俊哉の闇を感じる恐ろしい表情だ。
かつて俊哉は、こんな表情を浮かべながら――。
古い記憶が刺激され、軽い吐き気を催す。無意識に和彦は口元に手をやり、必死に実の父親から目を背けていた。
この感覚があるから、何があっても自分は俊哉に逆らえないと思ってしまう。骨身に刻みつけられるどころか、体中に流れる血に、細胞に、俊哉への恐怖が組み込まれているのだ。だから、会いたくなかった。
「――定期的にお前と会う機会を作らせる」
じっと考え込んでいた和彦は、何か大事なことを言われた気がして我に返る。
「えっ?」
「息子の身を案じる父親としては当然の要求だ。わたしと交渉をしたいなら、向こうも呑まざるをえないだろう」
化け狐と腹の探り合いだと、どこか楽しげに俊哉は呟いた。
「……会いたくないというぼくの要求は、当然通らないんだろうね」
「上手く立ち回れ、和彦。今は紳士ぶっている連中だが、お前をわたしに取り上げられるかもしれないとわかった途端、どんな極道らしい手口を使ってくるかしれない。お前は野獣どもの中でがんばって、自分だけじゃなく、わたしも守るんだ。言う通りにできたら、褒美をやろう」
このとき自分がどんな表情を浮かべたのか、和彦には自覚はなかった。ただ俊哉は短く声を洩らして笑ってから、スマートな動作で立ち上がる。和彦の目の前に立つと、スッと耳元に顔を寄せて言った。
「お前は、特別な息子だ。英俊よりも。だから、〈父さん〉が言いたいことはわかっているな?」
和彦は震えを帯びた声で、俊哉が求める答えを口にする。
「ぼくは――」
靴音を響かせて俊哉は去っていった。
和彦は、魂が抜けてしまったような虚脱感に全身を支配されていた。ベンチに腰掛けたまま半ば呆然として、さきほどまでの俊哉とのやり取りを思い返す。それは苦行に近い作業だが、自分は何か重要な言葉を聞き洩らしたのではないかと、不安で仕方なかったのだ。
やはり会うべきではなかったと、後悔を噛み締める。俊哉と話してみて痛感したが、すべてを知りながら、和彦の身柄を巡って一歩も引くつもりはない。父親としての強い情に駆られてのことという一面は確かにあるだろうが、それだけではない。そう断言できる程度には、和彦は俊哉という人物を知っていた。
さきほど話していた口ぶりでは、和彦を通して、守光を手玉に取ろうと企んでいる節すらある。
ゾッとして身を震わせたあとで和彦は、自分の迂闊さを口中で罵っていた。
俊哉に直接、昔、守光との間に何があったのか尋ねようと思っていたのに、できなかったのだ。怒っている素振りを一切見せなかった俊哉に、それでも委縮してしまった。
ほんの三十分、隣り合って話していただけなのに、和彦の精神力は限界まで消耗していた。これまで男たちに注がれてきた激しくも優しい情愛すら奪い取られたように思え、そう感じる自分に、心底恐怖する。
「……気持ち悪い……」
再び込み上げてきた吐き気に、口元をてのひらで覆う。そこに、総和会の護衛の男がさりげなく近づいてきた。
「佐伯俊哉氏は、通りからタクシーに乗ったそうです。我々も帰りましょう」
のろのろと頷いた和彦は立ち上がろうとしたが、体がふらついてベンチに手をつく。素早く男に片腕を取られて支えられた。
「大丈夫ですか?」
「……体が冷えたみたいで。少し気分が悪い、です……」
「でしたら、急いで車に」
足元が覚束ない和彦は腰を抱えられるようにして、やや強引に歩かされる。駐車場で待機していた車の後部座席に乗り込むと、速やかに車は動き出した。
「これから、どこに?」
預けていた携帯電話をコートのポケットに入れてから、和彦は問いかける。答えはわかりきったものだった。
「本部にお連れするよう、言いつけられています」
「ああ、そうか……」
守光に、俊哉と話した内容を報告しなくてはならない。もちろん、言われたことすべてではなく、和彦が選別する必要がある。薄々察しているにせよ、鷹津と俊哉が通じていることも、隠さなくてはならないだろう。
守光と向き合って、また神経を擦り減らすことになるのかと考えた途端、和彦は限界を迎えた。
「――今日は、マンションに戻ります」
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