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第38話
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カツンと靴音を響かせて、俊哉が歩き始める。和彦は慌ててあとを追いかけ、近くのベンチに並んで腰掛けた。このときさりげなく周囲の様子を観察したが、離れた場所からこちらをうかがう人の姿が数人ほどいた気がする。
「まずは、お前の気持ちを聞いておこう。――今一緒にいる連中のもとから離れる気はあるのか?」
いきなり核心を突く問いかけに、和彦は体を強張らせる。異常な口中の渇きを自覚しながら、懸命に言葉を紡ぐ。
「今は、ない。向こうから、もう必要ないと言われて切り捨てられる日がくるだろうけど、少なくともそれまでは、このままでいさせてほしい……。佐伯の家に迷惑をかけているとわかっている。だから、姓を変えろというなら、ぼくは受け入れる」
「殊勝なことを言っているが、ずいぶんお前にとって都合のいい申し出だな」
俊哉は語気を荒らげることもせず、表情もにこやかだ。
「どう思っているか知らないが、お前は佐伯家にとって……、いや、わたしにとってかけがえのない存在だ。何も知らない他人は、わたしとお前との間に確執があると勘繰っているようだ。綾香や英俊ですら、父親であるわたしも、お前を疎んじていると思っている。だから簡単に、お前を和泉の家に養子に出せと言う」
この瞬間、初めて俊哉の顔からにこやかさが消える。代わって浮かんだのは、心底不快そうな表情だった。その表情はゾッとするほど冷ややかだ。
綾香というのは、英俊と和彦の母親の名だ。自身も仕事で多忙ながら、夫である俊哉を支え、人の出入りの多い佐伯家を取り仕切り、母親や妻という役割を完璧に務めてきた。ただ和彦は昔から、母親と会話というものを交わした記憶はほとんどない。いつでも、一方的に用件を告げてくるだけだった。
今顔を合わせても、その態度は変わらないだろう。
ちなみに和泉は、母親の旧姓だ。
「誰がなんと言おうが、わたしはお前を手放す気はない。――お前は、わたしが唯一、自分の人生を犠牲にする覚悟で手に入れた〈もの〉だ。身内ですら、わたしにとってのお前の存在を安易に考えている。つまりそれほど、わたしは薄情な人間だと思われているということか?」
最後の問いかけは、和彦に対するものではなく、自身に向けられたものだ。すでに俊哉は元のにこやかな表情を浮かべており、心の内を完璧に覆い隠していた。
俊哉が腕時計に視線を落とす。
「総和会から、お前と話せるのは三十分だけだと言われた。今日はあくまで、お前の身の安全を確認するために設けられた機会というわけだ。どうやら長嶺守光は、交渉を長引かせて、わたしからより多くの利得を得たいらしい」
「利得?」
「わたしの審議官という肩書きは、いろいろと魅力的だ。これまで培ってきた人脈もあるしな。それに退官後の天下り先も、気になるところだろう。我欲に走る男ではないと思っていたが、数十年ぶりにその認識を改めるときがきたのかもな」
「……長嶺会長と話したんだろう?」
「電話越しで話していても疲れる相手だ。徹底して腹の底まで探ってこようとしてくる。――気にはなっているんだろう。総和会や長嶺組の内情や、お前を巡る人間関係を、わたしがどこまで把握しているか。把握しているとしたら、誰がわたしに伝えたのか」
鷹津の存在を仄めかされていると感じ、和彦は思わず俊哉のほうに身を乗り出す。口を開きかけたが、すかさず釘を刺された。
「お前はまだ、鷹津くんのことを聞かないほうがいい。知ったところで、お前が長嶺守光の目を欺けるとも思えん。奴の息子も、なかなかの人物だと聞いた。その二人から問い詰められて、鷹津くんの役割と居場所を隠し通せるか?」
鷹津のことは知りたいが、俊哉の判断の正しさを認めざるをえない。隠せないなら、知らないほうがいい。鷹津のためにも。
そう自分に言い聞かせる和彦の気持ちを、俊哉はたやすく翻弄してきた。
「総和会を引っ掻き回せるなら、いくらでも憎まれ役をやってやると彼は言っていた。……まあ、これぐらいは教えておこう」
唇を引き結んだ和彦を、俊哉はおもしろそうに眺めている。表面上とはいえ、俊哉は英俊よりよほど表情が豊かだ。どういう状況で、どんな表情をすれば、他人から共感や好印象を得られるか知り抜いており、そのための労力を惜しまない。
そんな父親の計算高さを知っているからこそ、和彦にとっては不気味なのだが。
「鷹津に、危険なことをやらせるつもりじゃ……」
これ以上話すつもりはないと、俊哉は唇の前で人さし指を立てた。
「――お前は愚かだ。情なんてものに振り回された挙げ句に雁字搦めになり、切り捨てることもできずに深みにハマる。それほど、何人もの男に大事にされる生活は、捨て難いか?」
「そんな言い方……、やめてほしい」
「まずは、お前の気持ちを聞いておこう。――今一緒にいる連中のもとから離れる気はあるのか?」
いきなり核心を突く問いかけに、和彦は体を強張らせる。異常な口中の渇きを自覚しながら、懸命に言葉を紡ぐ。
「今は、ない。向こうから、もう必要ないと言われて切り捨てられる日がくるだろうけど、少なくともそれまでは、このままでいさせてほしい……。佐伯の家に迷惑をかけているとわかっている。だから、姓を変えろというなら、ぼくは受け入れる」
「殊勝なことを言っているが、ずいぶんお前にとって都合のいい申し出だな」
俊哉は語気を荒らげることもせず、表情もにこやかだ。
「どう思っているか知らないが、お前は佐伯家にとって……、いや、わたしにとってかけがえのない存在だ。何も知らない他人は、わたしとお前との間に確執があると勘繰っているようだ。綾香や英俊ですら、父親であるわたしも、お前を疎んじていると思っている。だから簡単に、お前を和泉の家に養子に出せと言う」
この瞬間、初めて俊哉の顔からにこやかさが消える。代わって浮かんだのは、心底不快そうな表情だった。その表情はゾッとするほど冷ややかだ。
綾香というのは、英俊と和彦の母親の名だ。自身も仕事で多忙ながら、夫である俊哉を支え、人の出入りの多い佐伯家を取り仕切り、母親や妻という役割を完璧に務めてきた。ただ和彦は昔から、母親と会話というものを交わした記憶はほとんどない。いつでも、一方的に用件を告げてくるだけだった。
今顔を合わせても、その態度は変わらないだろう。
ちなみに和泉は、母親の旧姓だ。
「誰がなんと言おうが、わたしはお前を手放す気はない。――お前は、わたしが唯一、自分の人生を犠牲にする覚悟で手に入れた〈もの〉だ。身内ですら、わたしにとってのお前の存在を安易に考えている。つまりそれほど、わたしは薄情な人間だと思われているということか?」
最後の問いかけは、和彦に対するものではなく、自身に向けられたものだ。すでに俊哉は元のにこやかな表情を浮かべており、心の内を完璧に覆い隠していた。
俊哉が腕時計に視線を落とす。
「総和会から、お前と話せるのは三十分だけだと言われた。今日はあくまで、お前の身の安全を確認するために設けられた機会というわけだ。どうやら長嶺守光は、交渉を長引かせて、わたしからより多くの利得を得たいらしい」
「利得?」
「わたしの審議官という肩書きは、いろいろと魅力的だ。これまで培ってきた人脈もあるしな。それに退官後の天下り先も、気になるところだろう。我欲に走る男ではないと思っていたが、数十年ぶりにその認識を改めるときがきたのかもな」
「……長嶺会長と話したんだろう?」
「電話越しで話していても疲れる相手だ。徹底して腹の底まで探ってこようとしてくる。――気にはなっているんだろう。総和会や長嶺組の内情や、お前を巡る人間関係を、わたしがどこまで把握しているか。把握しているとしたら、誰がわたしに伝えたのか」
鷹津の存在を仄めかされていると感じ、和彦は思わず俊哉のほうに身を乗り出す。口を開きかけたが、すかさず釘を刺された。
「お前はまだ、鷹津くんのことを聞かないほうがいい。知ったところで、お前が長嶺守光の目を欺けるとも思えん。奴の息子も、なかなかの人物だと聞いた。その二人から問い詰められて、鷹津くんの役割と居場所を隠し通せるか?」
鷹津のことは知りたいが、俊哉の判断の正しさを認めざるをえない。隠せないなら、知らないほうがいい。鷹津のためにも。
そう自分に言い聞かせる和彦の気持ちを、俊哉はたやすく翻弄してきた。
「総和会を引っ掻き回せるなら、いくらでも憎まれ役をやってやると彼は言っていた。……まあ、これぐらいは教えておこう」
唇を引き結んだ和彦を、俊哉はおもしろそうに眺めている。表面上とはいえ、俊哉は英俊よりよほど表情が豊かだ。どういう状況で、どんな表情をすれば、他人から共感や好印象を得られるか知り抜いており、そのための労力を惜しまない。
そんな父親の計算高さを知っているからこそ、和彦にとっては不気味なのだが。
「鷹津に、危険なことをやらせるつもりじゃ……」
これ以上話すつもりはないと、俊哉は唇の前で人さし指を立てた。
「――お前は愚かだ。情なんてものに振り回された挙げ句に雁字搦めになり、切り捨てることもできずに深みにハマる。それほど、何人もの男に大事にされる生活は、捨て難いか?」
「そんな言い方……、やめてほしい」
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