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第38話
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冷たい空気が頬に触れて、一気に鳥肌が立つ。肌寒さもあるが、それ以上に、これから起こることに対しての底知れない恐れが体の反応として表れたようだ。
和彦はゆっくりと息を吐き出しながら、慎重に辺りを見回す。駐車場のスペースの半分は、車で埋まっている。ホールを出入りする人たちの姿はちらほらあり、何かイベントが催されているようだ。てっきり自分も建物に入るのだと思ったが、物陰に立つスーツ姿の男と目が合うと、こちらに来るよう促され、和彦はふらふらとついていく。
ホールの側にレンガ敷きの歩道があり、キャラクターの描かれた看板が立っていた。どうやらまっすぐ進んだ先には広場があるらしい。歩いていけばわかるとだけ言って、男はすぐに来た道を引き返し、和彦は一人で進むことになる。
すぐ傍らを小川が流れている。歩道は街灯で明るく照らされ、散歩やジョギングをしている人の姿もあって、心細くはなかった。
ここを、父子の久々の対面場所に選んだのは誰なのだろうかと、歩きながらぼんやりと和彦は考える。人目につくことを何よりも避けそうなものだが、一方で、人目があるからこそ迂闊に手出しできないことを計算に入れた可能性もあった。
二人の権力の化け物の考えることはわからないと、そっと嘆息した和彦は、何げなく視線を先に向け、ドキリとする。小川に沿うように設けられた柵の前に人が佇んでいるのだが、その立ち姿に嫌というほど見覚えがあった。背の高さも体つきも、鏡で見る和彦自身によく似ている。
心臓の鼓動が急に速くなり、呼吸が荒くなる。じわりと手足の先から冷たくなってきた。できることなら引き返したいが、体は和彦の意に反して、まるで機械のように歩みを続ける。
佇む人物との距離があっという間になくなる。足を止めた和彦は、父さん、と心の中で呼びかけ、向けられた横顔をじっと見つめた。
佐伯俊哉という人物は、とっくに六十代という年齢に突入していながら、非常に若々しい外見を保っている。髪は染めているにせよ黒々としており、それが不自然に思えないほどに肌はキメが整い、皺もほとんどない。
怜悧狡猾な気質を巧みに覆い隠すように、常ににこやかな表情を浮かべる顔は、一言で表現するなら〈美男子〉が最適だろう。老いを、深みという言葉に変えてしまう整った目鼻立ちと、それ以上の魅力を与える華やかで艶やかな雰囲気は、天性の人たらしがもたらすいわゆる魔性だ。和彦が知る限り、俊哉と相対すると誰も逆らえない。
和彦は息も詰まるような緊迫感に耐えながら、今度は声に出して呼びかけた。
「――……父さん……」
みっともないほど声は掠れていた。ようやく俊哉が身じろぎ、こちらを見た。向けられる柔らかな眼差しは、誰に対しても平等だ。おそらく、道端に転がった虫の死骸にすら、俊哉は同じ眼差しを向けるはずだ。
和彦の強張った顔をじっくりと見つめて、俊哉が言った。
「お前は昔から、英俊同様、母さんの家の血がよく出た顔立ちをしている言われていたが、久しぶりに見ると、そうでもないな。どことなく、わたしに似てきた」
「……兄さんは、自分とよく似ていると言っていたけど」
「あれは、見たいものしか見ない。自分より、お前のほうがわたしに似ていると、認めたくないのだろう。頭は切れるが、ものの本質を見るということをしない。自分の目から見た判断と、他人から与えられる評価に囚われて、結果、いつまでもわたしの忠実なコピーでいようとする。傲慢にも、自分だけが佐伯俊哉の代わりになれると信じている」
この場に英俊がいなくてよかったと思った。穏やかな口調とは裏腹の、兄に対する俊哉の厳しい評価を聞きながら、和彦は震撼する。英俊の前では、自分はどんなふうに評価されているのかと想像していた。
英俊は、父親である俊哉を盲信している。家庭内において、和彦はあくまで異物であり、俊哉がそう扱うから、自分もそうすべきだと信じ、なおかつ和彦に痛みを与え続けた。
しかし和彦は、幼少の頃からわかっていたのだ。俊哉は、どんなに自分を疎外し、いないものとして扱いながらも、決して見捨てることはしない――できないと。それは言い換えるなら、和彦が俊哉のもとから逃れられないということでもある。
和彦が何も言えないでいると、俊哉は優しい笑みを浮かべた。
「英俊のことは今はいい。時間は限られている。さあ、化け狐が望んでいる通り、父子の久々の対面とやらを演じてやるか」
ハッとして目を見開く。俊哉の言葉で、守光との間に何があったのか、自分は知りたがっていることを思い出した。
「父さんは、長嶺会長と――」
和彦はゆっくりと息を吐き出しながら、慎重に辺りを見回す。駐車場のスペースの半分は、車で埋まっている。ホールを出入りする人たちの姿はちらほらあり、何かイベントが催されているようだ。てっきり自分も建物に入るのだと思ったが、物陰に立つスーツ姿の男と目が合うと、こちらに来るよう促され、和彦はふらふらとついていく。
ホールの側にレンガ敷きの歩道があり、キャラクターの描かれた看板が立っていた。どうやらまっすぐ進んだ先には広場があるらしい。歩いていけばわかるとだけ言って、男はすぐに来た道を引き返し、和彦は一人で進むことになる。
すぐ傍らを小川が流れている。歩道は街灯で明るく照らされ、散歩やジョギングをしている人の姿もあって、心細くはなかった。
ここを、父子の久々の対面場所に選んだのは誰なのだろうかと、歩きながらぼんやりと和彦は考える。人目につくことを何よりも避けそうなものだが、一方で、人目があるからこそ迂闊に手出しできないことを計算に入れた可能性もあった。
二人の権力の化け物の考えることはわからないと、そっと嘆息した和彦は、何げなく視線を先に向け、ドキリとする。小川に沿うように設けられた柵の前に人が佇んでいるのだが、その立ち姿に嫌というほど見覚えがあった。背の高さも体つきも、鏡で見る和彦自身によく似ている。
心臓の鼓動が急に速くなり、呼吸が荒くなる。じわりと手足の先から冷たくなってきた。できることなら引き返したいが、体は和彦の意に反して、まるで機械のように歩みを続ける。
佇む人物との距離があっという間になくなる。足を止めた和彦は、父さん、と心の中で呼びかけ、向けられた横顔をじっと見つめた。
佐伯俊哉という人物は、とっくに六十代という年齢に突入していながら、非常に若々しい外見を保っている。髪は染めているにせよ黒々としており、それが不自然に思えないほどに肌はキメが整い、皺もほとんどない。
怜悧狡猾な気質を巧みに覆い隠すように、常ににこやかな表情を浮かべる顔は、一言で表現するなら〈美男子〉が最適だろう。老いを、深みという言葉に変えてしまう整った目鼻立ちと、それ以上の魅力を与える華やかで艶やかな雰囲気は、天性の人たらしがもたらすいわゆる魔性だ。和彦が知る限り、俊哉と相対すると誰も逆らえない。
和彦は息も詰まるような緊迫感に耐えながら、今度は声に出して呼びかけた。
「――……父さん……」
みっともないほど声は掠れていた。ようやく俊哉が身じろぎ、こちらを見た。向けられる柔らかな眼差しは、誰に対しても平等だ。おそらく、道端に転がった虫の死骸にすら、俊哉は同じ眼差しを向けるはずだ。
和彦の強張った顔をじっくりと見つめて、俊哉が言った。
「お前は昔から、英俊同様、母さんの家の血がよく出た顔立ちをしている言われていたが、久しぶりに見ると、そうでもないな。どことなく、わたしに似てきた」
「……兄さんは、自分とよく似ていると言っていたけど」
「あれは、見たいものしか見ない。自分より、お前のほうがわたしに似ていると、認めたくないのだろう。頭は切れるが、ものの本質を見るということをしない。自分の目から見た判断と、他人から与えられる評価に囚われて、結果、いつまでもわたしの忠実なコピーでいようとする。傲慢にも、自分だけが佐伯俊哉の代わりになれると信じている」
この場に英俊がいなくてよかったと思った。穏やかな口調とは裏腹の、兄に対する俊哉の厳しい評価を聞きながら、和彦は震撼する。英俊の前では、自分はどんなふうに評価されているのかと想像していた。
英俊は、父親である俊哉を盲信している。家庭内において、和彦はあくまで異物であり、俊哉がそう扱うから、自分もそうすべきだと信じ、なおかつ和彦に痛みを与え続けた。
しかし和彦は、幼少の頃からわかっていたのだ。俊哉は、どんなに自分を疎外し、いないものとして扱いながらも、決して見捨てることはしない――できないと。それは言い換えるなら、和彦が俊哉のもとから逃れられないということでもある。
和彦が何も言えないでいると、俊哉は優しい笑みを浮かべた。
「英俊のことは今はいい。時間は限られている。さあ、化け狐が望んでいる通り、父子の久々の対面とやらを演じてやるか」
ハッとして目を見開く。俊哉の言葉で、守光との間に何があったのか、自分は知りたがっていることを思い出した。
「父さんは、長嶺会長と――」
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