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第38話
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「……どうかな。いっそのこと、完全に関わりを絶ったほうが――」
『それはダメだっ』
思いがけず里見の激しい反応に、和彦は目を丸くする。
「里見さん……」
『家族ともう二度と会わないつもりか? おれとも……』
そもそも里見とは、高校を卒業してから十三年ほど顔を合わせるどころか、連絡も取り合っていなかった。長嶺の男たちと知り合うことがなければ、そのままの状態が続いていたはずだ。里見は佐伯家の厄介な問題に巻き込まれることなく、和彦とのことも、単なる思い出になっていただろう。
だからこそ、里見の物言いが気になった。しかし指摘してはいけないように思え、和彦はあえて違うことを口にする。
「――今、〈おれ〉って言った」
数秒ほど、戸惑ったように沈黙した里見が、ああ、と吐息のような声を洩らした。
『仕事でもそれ以外でも、ずっと〈わたし〉で通しているから、馴染んだつもりだったけど……。君が相手だとダメだな』
「ぼくにとっては、そっちのほうが里見さんらしい」
『何があったのか話してくれたら、昔の言い方に戻すよ。和彦くんだけに』
口ぶりは冗談めかしているが、電話の向こうで里見は真剣な顔をしているのであろうと想像できた。
「……ズルいな、その言い方」
『前に会ったとき、おれは言ったよ。大人は、ズルいんだと。きっと、大人になった君でも想像できないぐらい』
自嘲気味に洩らした里見が、大きく息を吐き出したあと、囁きかけるような声で言った。
『また、会いたいな。君に』
里見の声音に記憶を揺さぶられる。蘇ったのは、和彦が高校生の頃、体を重ねたあとに里見から惜しみなく与えられた、甘い睦言の数々だった。
そんな場合ではないと頭ではわかっていながらも、顔が熱くなって冷静ではいられなくなる。里見にはまだ聞きたいことがあり、なんとか言葉を紡ごうとした和彦の耳に、電話の向こうから微かな物音が届いた。続いて、里見が発した鋭い息遣いが。明らかに里見は動揺していた。
『悪いっ、和彦くん。仕事用の携帯が鳴ってるんだ』
「あっ、うん。じゃあ、これで――」
言葉の途中で慌ただしく電話が切られ、和彦は呆気に取られる。どうにか気を取り直してから、携帯電話の電源を切った。おそらく今夜は、電話をかけ直してくることはないだろうという気がした。里見は誤魔化そうとしていたが、部屋に誰かやってきたのだ。
和彦は携帯電話をナイトテーブルに置くと、そのままベッドに横たわる。思わず深いため息をついていた。
里見ほどの人物が、いまだに独身であることがそもそもおかしいのだ。穏やかで優しい人柄と恵まれた容姿をしており、元官僚のうえに現在は一流の民間シンクタンクに勤めている。四十歳を過ぎているとはいえ、つき合うには申し分ない人物だと誰もが判断するはずだ。
だからこそ、恋人がいたところで不思議ではない。そう頭ではわかっているのに、胸の奥がチクチクと痛む。
里見に対する意識だけは、自分はまだ高校生の頃から変わっていないと、和彦は痛感する。あの頃の里見は仕事で忙しくしながら、せっかくの休みの日であっても、ほとんどの時間を和彦のために使ってくれた。傲慢ですらあった当時の和彦は、それを当然のこととして受け止めていたのだ。
里見の優しさに甘えすぎる癖が抜けていなかったと、自省した和彦は半ば強引に気持ちを切り替える。今はとにかく、明日を無事に切り抜けることに意識のすべてを傾けるべきだった。
憂鬱だ、と声に出さずに呟く。憂鬱すぎて、今いる場所から逃げ出したくて堪らないが、行く場所もない。だったらせめて、自分を大事に扱ってくれる男たちを守るために、ささやかな戦いを繰り広げるしかなかった。
俊哉と会う当日、和彦は何も知らされないまま、いつもと変わらずクリニックでの仕事を終え、総和会の迎えの車に乗り込んだ。
和彦はともかく、俊哉の立場が立場なので、人目につかないようレストランの個室を貸し切るか、せめてホテルの一室でも取ってあるのかと思ったが、車が向かったのは意外な場所だった。
まさかと思っているうちに、イベントホールの駐車場に入った車はエンジンを切る。
「―――……ここ、ですか?」
困惑した声を洩らすと、助手席の男が振り返る。これまで和彦の護衛についたことのない男で、おそらく南郷が、今日のためにつけたのだろう。
「ここです。すでに周囲にはうちの者を配置してありますので、ご安心を。それと念のため、携帯は車に置いていってください」
いまさら警察に連絡するとでも疑われているのだろうかと思いながら、和彦は急いでコートのポケットから携帯電話を取り出してシートの上に置くと、思い切って車を降りた。
『それはダメだっ』
思いがけず里見の激しい反応に、和彦は目を丸くする。
「里見さん……」
『家族ともう二度と会わないつもりか? おれとも……』
そもそも里見とは、高校を卒業してから十三年ほど顔を合わせるどころか、連絡も取り合っていなかった。長嶺の男たちと知り合うことがなければ、そのままの状態が続いていたはずだ。里見は佐伯家の厄介な問題に巻き込まれることなく、和彦とのことも、単なる思い出になっていただろう。
だからこそ、里見の物言いが気になった。しかし指摘してはいけないように思え、和彦はあえて違うことを口にする。
「――今、〈おれ〉って言った」
数秒ほど、戸惑ったように沈黙した里見が、ああ、と吐息のような声を洩らした。
『仕事でもそれ以外でも、ずっと〈わたし〉で通しているから、馴染んだつもりだったけど……。君が相手だとダメだな』
「ぼくにとっては、そっちのほうが里見さんらしい」
『何があったのか話してくれたら、昔の言い方に戻すよ。和彦くんだけに』
口ぶりは冗談めかしているが、電話の向こうで里見は真剣な顔をしているのであろうと想像できた。
「……ズルいな、その言い方」
『前に会ったとき、おれは言ったよ。大人は、ズルいんだと。きっと、大人になった君でも想像できないぐらい』
自嘲気味に洩らした里見が、大きく息を吐き出したあと、囁きかけるような声で言った。
『また、会いたいな。君に』
里見の声音に記憶を揺さぶられる。蘇ったのは、和彦が高校生の頃、体を重ねたあとに里見から惜しみなく与えられた、甘い睦言の数々だった。
そんな場合ではないと頭ではわかっていながらも、顔が熱くなって冷静ではいられなくなる。里見にはまだ聞きたいことがあり、なんとか言葉を紡ごうとした和彦の耳に、電話の向こうから微かな物音が届いた。続いて、里見が発した鋭い息遣いが。明らかに里見は動揺していた。
『悪いっ、和彦くん。仕事用の携帯が鳴ってるんだ』
「あっ、うん。じゃあ、これで――」
言葉の途中で慌ただしく電話が切られ、和彦は呆気に取られる。どうにか気を取り直してから、携帯電話の電源を切った。おそらく今夜は、電話をかけ直してくることはないだろうという気がした。里見は誤魔化そうとしていたが、部屋に誰かやってきたのだ。
和彦は携帯電話をナイトテーブルに置くと、そのままベッドに横たわる。思わず深いため息をついていた。
里見ほどの人物が、いまだに独身であることがそもそもおかしいのだ。穏やかで優しい人柄と恵まれた容姿をしており、元官僚のうえに現在は一流の民間シンクタンクに勤めている。四十歳を過ぎているとはいえ、つき合うには申し分ない人物だと誰もが判断するはずだ。
だからこそ、恋人がいたところで不思議ではない。そう頭ではわかっているのに、胸の奥がチクチクと痛む。
里見に対する意識だけは、自分はまだ高校生の頃から変わっていないと、和彦は痛感する。あの頃の里見は仕事で忙しくしながら、せっかくの休みの日であっても、ほとんどの時間を和彦のために使ってくれた。傲慢ですらあった当時の和彦は、それを当然のこととして受け止めていたのだ。
里見の優しさに甘えすぎる癖が抜けていなかったと、自省した和彦は半ば強引に気持ちを切り替える。今はとにかく、明日を無事に切り抜けることに意識のすべてを傾けるべきだった。
憂鬱だ、と声に出さずに呟く。憂鬱すぎて、今いる場所から逃げ出したくて堪らないが、行く場所もない。だったらせめて、自分を大事に扱ってくれる男たちを守るために、ささやかな戦いを繰り広げるしかなかった。
俊哉と会う当日、和彦は何も知らされないまま、いつもと変わらずクリニックでの仕事を終え、総和会の迎えの車に乗り込んだ。
和彦はともかく、俊哉の立場が立場なので、人目につかないようレストランの個室を貸し切るか、せめてホテルの一室でも取ってあるのかと思ったが、車が向かったのは意外な場所だった。
まさかと思っているうちに、イベントホールの駐車場に入った車はエンジンを切る。
「―――……ここ、ですか?」
困惑した声を洩らすと、助手席の男が振り返る。これまで和彦の護衛についたことのない男で、おそらく南郷が、今日のためにつけたのだろう。
「ここです。すでに周囲にはうちの者を配置してありますので、ご安心を。それと念のため、携帯は車に置いていってください」
いまさら警察に連絡するとでも疑われているのだろうかと思いながら、和彦は急いでコートのポケットから携帯電話を取り出してシートの上に置くと、思い切って車を降りた。
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