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第38話
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今度一緒に飲もうと約束をして電話を終えると、そのまま電源も切ってしまう。無意識にため息をつきそうになった和彦だが、いろいろと邪推されるのではないかと自制心が働き、ぐっと堪えた。
ようやく渋滞を抜けた車がいくぶんスピードを上げる。向かうのは、総和会本部だった。
朝、出勤前に守光本人から連絡が入り、仕事を終えてから来るよう言われたのだ。はっきりとは言われなかったが、一夜を共に過ごすよう匂わされ、和彦に否と言えるはずもなかった。
見方を変えれば、守光に疑問をぶつけられる機会を得たともいえる。
自分の父親と守光は、本当はどんな関係であったのか――。
緊張のためわずかに冷たくなった自分の手を、和彦はきつく握り締めた。
食事をしながら守光に切り出してみようという和彦のささやかな計画は、実行には至らなかった。肝心の守光が、会食のため外で夕食をとったということで、用意されていたのは和彦一人分だったのだ。
しかも守光は、急ぎの書き物があるということで自室に入ってしまった。結局和彦は、給仕をする吾川と他愛ない世間話をしつつ食事をとり、その後、勧められるまま風呂に入った。
浴衣を着て髪を乾かしたあと、一旦客間に入ったが、なんとも身の置き場がない。守光に急ぎの用事が入ったのなら、このまま滞在していても自分は邪魔になるのではないかと、和彦はこっそり吾川に尋ねたが、穏やかな笑みを返されただけだった。
その笑みの理由は、一時間もしないうちに理解できた。吾川に呼ばれて客間から顔を出すと、守光の用事が終わったと耳打ちされた。
吾川が玄関から出ていき、取り残された和彦は数分ほどまごついていたが、いつもと同じ流れではないかと自分に言い聞かせ、守光の部屋の前に立った。こちらから声をかける前に、気配でわかったらしく中から守光に呼ばれた。
そっと襖を開けて中に足を踏み入れると、まっさきに、延べられた布団が視界に入ってドキリとする。傍らには、すでに見慣れた漆塗りの文箱があった。無視できない妖しいざわつきが生まれ、思わず和彦は胸に手を遣る。
「どうかしたかね」
文机の前に座っている守光に声をかけられて、和彦は我に返る。穏やかな眼差しを向けられると、まるで操られるかのようにぎこちない動きで襖を閉めた。守光に手招きされ、側に座る。
「もう、書き物のほうはよろしいのですか?」
「ああ。急に礼状が必要になった。年を取ると、書き慣れた文章でも捻り出すのに苦労して困る」
ここで沈黙が訪れる。視線を伏せがちにしていた和彦だが、思いきって守光を見ると、冷徹ともいえる眼差しをまっすぐ向けられていた。胸に広がる衝撃に、一瞬息が止まる。
「あんたとこうしてゆっくりできるのは、何日ぶりだろうな」
「……すみません」
「責めているわけじゃない。あんたにはあんたの都合があって、予定もある。わしのわがままを押し付けるわけにはいかん。ただ、そろそろ急がねばならんことがあって、今日は慌ただしいことになってしまった」
「それは――」
先日から言われている相談したいことだろうか。そう思った和彦は確認しようとしたが、口元に薄い笑みを浮かべた守光に先にこう言われた。
「まあ、その話はあとで」
立ち上がった守光が羽織を脱いでから片手を差し出してくる。一瞬ためらいはしたものの和彦はその手を取った。
布団の上に座って肩を抱かれたとき、和彦はやはりどうしても、俊哉のことを考えずにはいられなかった。守光は、やはりこうして、自分の父親の肩を抱いていたのだろうかと。もしくは、抱かれたのか。
和彦の体の強張りを感じ取ったのか、宥めるように守光が浴衣の上から肩先を撫でる。
「憂いを帯びた顔をしている。何か心配事があるんじゃないのかね」
「いえっ、そういうわけでは……」
「あんたの場合、どこかの男に言い寄られているんじゃないかと、年甲斐もなく気を揉んでしまう。だったら、なんでも打ち明けてもらったほうが安心する。わしにできることなら、手を貸すこともできるし」
守光の言葉に感じたのはもちろん心強さではなく、空恐ろしさだった。何も言えない和彦だったが、優しい手つきであごを持ち上げられたとき、ようやく小さく声を洩らす。しかし、言葉を発するには至らず、その前に守光に唇を塞がれていた。
丹念に何度も唇を吸われながら、守光の片手が浴衣の合わせから差し込まれる。胸元にひんやりとしたてのひらが押し当てられたとき、速くなっている自分の鼓動を知られるのではないかと、和彦は緊張する。
心の奥底まで探るように、守光がじっと両目を覗き込んでくる。狡猾で老獪な狐の放つ毒は、瞬く間に和彦の全身に回り、否応なく体の強張りを解いていく。
ようやく渋滞を抜けた車がいくぶんスピードを上げる。向かうのは、総和会本部だった。
朝、出勤前に守光本人から連絡が入り、仕事を終えてから来るよう言われたのだ。はっきりとは言われなかったが、一夜を共に過ごすよう匂わされ、和彦に否と言えるはずもなかった。
見方を変えれば、守光に疑問をぶつけられる機会を得たともいえる。
自分の父親と守光は、本当はどんな関係であったのか――。
緊張のためわずかに冷たくなった自分の手を、和彦はきつく握り締めた。
食事をしながら守光に切り出してみようという和彦のささやかな計画は、実行には至らなかった。肝心の守光が、会食のため外で夕食をとったということで、用意されていたのは和彦一人分だったのだ。
しかも守光は、急ぎの書き物があるということで自室に入ってしまった。結局和彦は、給仕をする吾川と他愛ない世間話をしつつ食事をとり、その後、勧められるまま風呂に入った。
浴衣を着て髪を乾かしたあと、一旦客間に入ったが、なんとも身の置き場がない。守光に急ぎの用事が入ったのなら、このまま滞在していても自分は邪魔になるのではないかと、和彦はこっそり吾川に尋ねたが、穏やかな笑みを返されただけだった。
その笑みの理由は、一時間もしないうちに理解できた。吾川に呼ばれて客間から顔を出すと、守光の用事が終わったと耳打ちされた。
吾川が玄関から出ていき、取り残された和彦は数分ほどまごついていたが、いつもと同じ流れではないかと自分に言い聞かせ、守光の部屋の前に立った。こちらから声をかける前に、気配でわかったらしく中から守光に呼ばれた。
そっと襖を開けて中に足を踏み入れると、まっさきに、延べられた布団が視界に入ってドキリとする。傍らには、すでに見慣れた漆塗りの文箱があった。無視できない妖しいざわつきが生まれ、思わず和彦は胸に手を遣る。
「どうかしたかね」
文机の前に座っている守光に声をかけられて、和彦は我に返る。穏やかな眼差しを向けられると、まるで操られるかのようにぎこちない動きで襖を閉めた。守光に手招きされ、側に座る。
「もう、書き物のほうはよろしいのですか?」
「ああ。急に礼状が必要になった。年を取ると、書き慣れた文章でも捻り出すのに苦労して困る」
ここで沈黙が訪れる。視線を伏せがちにしていた和彦だが、思いきって守光を見ると、冷徹ともいえる眼差しをまっすぐ向けられていた。胸に広がる衝撃に、一瞬息が止まる。
「あんたとこうしてゆっくりできるのは、何日ぶりだろうな」
「……すみません」
「責めているわけじゃない。あんたにはあんたの都合があって、予定もある。わしのわがままを押し付けるわけにはいかん。ただ、そろそろ急がねばならんことがあって、今日は慌ただしいことになってしまった」
「それは――」
先日から言われている相談したいことだろうか。そう思った和彦は確認しようとしたが、口元に薄い笑みを浮かべた守光に先にこう言われた。
「まあ、その話はあとで」
立ち上がった守光が羽織を脱いでから片手を差し出してくる。一瞬ためらいはしたものの和彦はその手を取った。
布団の上に座って肩を抱かれたとき、和彦はやはりどうしても、俊哉のことを考えずにはいられなかった。守光は、やはりこうして、自分の父親の肩を抱いていたのだろうかと。もしくは、抱かれたのか。
和彦の体の強張りを感じ取ったのか、宥めるように守光が浴衣の上から肩先を撫でる。
「憂いを帯びた顔をしている。何か心配事があるんじゃないのかね」
「いえっ、そういうわけでは……」
「あんたの場合、どこかの男に言い寄られているんじゃないかと、年甲斐もなく気を揉んでしまう。だったら、なんでも打ち明けてもらったほうが安心する。わしにできることなら、手を貸すこともできるし」
守光の言葉に感じたのはもちろん心強さではなく、空恐ろしさだった。何も言えない和彦だったが、優しい手つきであごを持ち上げられたとき、ようやく小さく声を洩らす。しかし、言葉を発するには至らず、その前に守光に唇を塞がれていた。
丹念に何度も唇を吸われながら、守光の片手が浴衣の合わせから差し込まれる。胸元にひんやりとしたてのひらが押し当てられたとき、速くなっている自分の鼓動を知られるのではないかと、和彦は緊張する。
心の奥底まで探るように、守光がじっと両目を覗き込んでくる。狡猾で老獪な狐の放つ毒は、瞬く間に和彦の全身に回り、否応なく体の強張りを解いていく。
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