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第37話
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耳元に蘇るのは、俊哉の優しく穏やかな話し声だった。改めて和彦が心に誓うのは、賢吾と自分の父親を接触させてはいけないということだ。
電話越しとはいえ、臆面もなく惚れていると言い放つ男にも、迷惑はかけたくない――。
「本当に、怖い夢を見ただけなんだ。子供の頃のことを思い出して……」
『だったら、一人寝は心細いだろう。しばらく本宅からクリニックに通ったらどうだ?』
本当に言いたかったのはこれかと、和彦はそっと苦笑を洩らす。嫌ではないが、甘えてしまうと、そのままズルズルと本宅に住みついてしまいそうな予感がするのだ。
「つい何日か前に、泊まったばかりだ」
『いいじゃねーか。うちはいつでも大歓迎だ』
誘いとしては魅力的だが、賢吾はなんとしても、和彦が見た〈怖い夢〉の内容を知りたがるだろう。その夢に俊哉が関わり、そこから、胸の奥に澱のように溜まっている不安を読み取られたら、と危惧してしまう。考えすぎかもしれないが、大蛇の化身のような男は、何を見通しても不思議ではない。
返事に困っていると、ドアの向こうから和彦を呼ぶ声が聞こえた。
「ああ、悪いけど、スタッフに呼ばれてるんだ」
『上手い言い訳だな』
「本当だっ」
信じたのかどうなのか、賢吾が今度はこんな提案をしてきた。
『怖い夢から守ってくれるかどうかは怪しいが、番犬を派遣してやる』
「……番犬?」
『頼もしい犬だぞ。可愛げもあるし』
本当なのか冗談なのか、そんなことを言った賢吾は、和彦の返事を聞くことなく一方的に電話を切った。
「――で、お前なのか?」
腕組みをして立つ和彦の言葉に、千尋が目を丸くする。その表情は人懐こい犬を連想させなくもないが、当然、千尋は犬などではない。
玄関に千尋が入ると、送ってきた組員が頭を下げてドアを閉める。ここからは二人の時間を、ということらしい。
いそいそと靴を脱いだ千尋が、釈然としない顔をしている和彦に向けて首を傾げる。
「先生?」
「昨日、お前の父親から電話があって、番犬を派遣してやると言われたんだ。……どうやら、お前のことらしいな」
「番犬……、犬、犬か――」
独り言を洩らし、一人納得したように千尋が頷く。その様子を眺め、長嶺父子が何か企んでいるのではないかと露骨に疑っていた和彦だが、ふと、先日千尋と車中で交わした会話を思い出す。おかげで、千尋をあれこれと問い詰める気力が一気に失せた。
約束したのは、和彦が最初なのだ。軽くため息をつくと、千尋を促してリビングへと向かう。
「……どうせ来るなら、クリニックが休みの日にすればよかったのに。そうすれば、明るいうちから出かけることもできただろ。この時間じゃ――、あっ、お前、夕飯は食べたのか?」
「ばっちり。だから、デザート持ってきた」
そう言って千尋が掲げて見せたのは、ケーキ屋のものらしい紙箱だった。受け取った和彦は、千尋の頭を手荒く撫でる。
「着替えを用意しておくから、シャワーを浴びてこい」
「さっさと食べて帰れって言わないんだ?」
最近、千尋を邪険に扱いすぎただろうかと、遠慮がちとも卑屈とも取れる発言を聞いて、少しばかり和彦の胸が痛む。千尋の額を軽く小突いて答えた。
「言わない。ぼくの抱き枕になりにきたんだろ?」
ニヤリと笑った千尋が、わおっ、と芝居がかった声を上げ、軽い足取りでバスルームへと向かった。和彦は、デザートはひとまず冷蔵庫に入れ、千尋の着替えを用意して脱衣所に置く。このとき、カゴに放り込まれているスーツ一式に気づき、ため息をつく。いつも、スーツだけは自分でハンガーに掛けろと注意しているが、気にも留めていないようだ。
上等なスーツに無様な皺がつくのが許せなくて、結局抱えて出ると、ハンガーにかけてやる。
今夜はダラダラと本を読んで過ごそうと思っていたので、連絡もなく千尋が押し掛けてきたからといって、特に不都合があるわけではない。ただ、仕事を終えて疲れているところに、さらに体力を使うことになるなと少しだけ思うだけだ。千尋が側にいると、話しているだけで生気を吸い取られていくような気がするのだ。
「いや、若さに圧倒されるのか……」
独り言を洩らしてから、和彦は苦笑いする。頭の片隅に、千尋よりさらに若い青年の顔が浮かびそうになったが、慌てて打ち消した。
ソファに腰を下ろそうとして、千尋が訪れる寸前まで何をしていたのかと思い出し、書斎へと行く。本棚の整理をしている途中だったのだ。最近は、本を買い込むばかりでまったく処分をしないため、いっそのこと、もう少し大きめの本棚を購入しようかと考えていた。
電話越しとはいえ、臆面もなく惚れていると言い放つ男にも、迷惑はかけたくない――。
「本当に、怖い夢を見ただけなんだ。子供の頃のことを思い出して……」
『だったら、一人寝は心細いだろう。しばらく本宅からクリニックに通ったらどうだ?』
本当に言いたかったのはこれかと、和彦はそっと苦笑を洩らす。嫌ではないが、甘えてしまうと、そのままズルズルと本宅に住みついてしまいそうな予感がするのだ。
「つい何日か前に、泊まったばかりだ」
『いいじゃねーか。うちはいつでも大歓迎だ』
誘いとしては魅力的だが、賢吾はなんとしても、和彦が見た〈怖い夢〉の内容を知りたがるだろう。その夢に俊哉が関わり、そこから、胸の奥に澱のように溜まっている不安を読み取られたら、と危惧してしまう。考えすぎかもしれないが、大蛇の化身のような男は、何を見通しても不思議ではない。
返事に困っていると、ドアの向こうから和彦を呼ぶ声が聞こえた。
「ああ、悪いけど、スタッフに呼ばれてるんだ」
『上手い言い訳だな』
「本当だっ」
信じたのかどうなのか、賢吾が今度はこんな提案をしてきた。
『怖い夢から守ってくれるかどうかは怪しいが、番犬を派遣してやる』
「……番犬?」
『頼もしい犬だぞ。可愛げもあるし』
本当なのか冗談なのか、そんなことを言った賢吾は、和彦の返事を聞くことなく一方的に電話を切った。
「――で、お前なのか?」
腕組みをして立つ和彦の言葉に、千尋が目を丸くする。その表情は人懐こい犬を連想させなくもないが、当然、千尋は犬などではない。
玄関に千尋が入ると、送ってきた組員が頭を下げてドアを閉める。ここからは二人の時間を、ということらしい。
いそいそと靴を脱いだ千尋が、釈然としない顔をしている和彦に向けて首を傾げる。
「先生?」
「昨日、お前の父親から電話があって、番犬を派遣してやると言われたんだ。……どうやら、お前のことらしいな」
「番犬……、犬、犬か――」
独り言を洩らし、一人納得したように千尋が頷く。その様子を眺め、長嶺父子が何か企んでいるのではないかと露骨に疑っていた和彦だが、ふと、先日千尋と車中で交わした会話を思い出す。おかげで、千尋をあれこれと問い詰める気力が一気に失せた。
約束したのは、和彦が最初なのだ。軽くため息をつくと、千尋を促してリビングへと向かう。
「……どうせ来るなら、クリニックが休みの日にすればよかったのに。そうすれば、明るいうちから出かけることもできただろ。この時間じゃ――、あっ、お前、夕飯は食べたのか?」
「ばっちり。だから、デザート持ってきた」
そう言って千尋が掲げて見せたのは、ケーキ屋のものらしい紙箱だった。受け取った和彦は、千尋の頭を手荒く撫でる。
「着替えを用意しておくから、シャワーを浴びてこい」
「さっさと食べて帰れって言わないんだ?」
最近、千尋を邪険に扱いすぎただろうかと、遠慮がちとも卑屈とも取れる発言を聞いて、少しばかり和彦の胸が痛む。千尋の額を軽く小突いて答えた。
「言わない。ぼくの抱き枕になりにきたんだろ?」
ニヤリと笑った千尋が、わおっ、と芝居がかった声を上げ、軽い足取りでバスルームへと向かった。和彦は、デザートはひとまず冷蔵庫に入れ、千尋の着替えを用意して脱衣所に置く。このとき、カゴに放り込まれているスーツ一式に気づき、ため息をつく。いつも、スーツだけは自分でハンガーに掛けろと注意しているが、気にも留めていないようだ。
上等なスーツに無様な皺がつくのが許せなくて、結局抱えて出ると、ハンガーにかけてやる。
今夜はダラダラと本を読んで過ごそうと思っていたので、連絡もなく千尋が押し掛けてきたからといって、特に不都合があるわけではない。ただ、仕事を終えて疲れているところに、さらに体力を使うことになるなと少しだけ思うだけだ。千尋が側にいると、話しているだけで生気を吸い取られていくような気がするのだ。
「いや、若さに圧倒されるのか……」
独り言を洩らしてから、和彦は苦笑いする。頭の片隅に、千尋よりさらに若い青年の顔が浮かびそうになったが、慌てて打ち消した。
ソファに腰を下ろそうとして、千尋が訪れる寸前まで何をしていたのかと思い出し、書斎へと行く。本棚の整理をしている途中だったのだ。最近は、本を買い込むばかりでまったく処分をしないため、いっそのこと、もう少し大きめの本棚を購入しようかと考えていた。
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