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第37話
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おそらく初めて会った人物だった。八月の法要では、城東会の人間とも顔を合わせ、挨拶も交わしているが、今目の前にいる男の姿はなかった。八月以前に催された行事の記憶も辿っていると、男はチノパンツのポケットをまさぐり、小さく舌打ちをした。
「すまない。名刺入れを車に置いてきたようだ。――城東会顧問の、館野だ」
「……佐伯です」
「ようやく、あんたに会えた。一度じっくり、話してみたいと思っていたんだ。うちの組長……、ああ、城東会のな。長嶺組の組長のことは、俺は〈本家〉組長と呼んでいるんだ。で、うちの組長が、あんたのことを褒めていた。何度か、言葉を交わしたことがあるんだろう?」
「ええ。行事のたびに、ご挨拶をさせていただいています」
「会うたびに、驚かされると言っていた。いかにも堅気だった色男が、図太く、したたかに、うちらの世界に染まってきているという意味で。上手く立ち回っているとも言っていた」
和彦は、館野が〈うちの組長〉と呼ぶ男の姿を、脳裏に思い浮かべる。四十代前半で、ヤクザというより、有能な経営者を思わせる知的な雰囲気を漂わせて、物静かな人物だった。和彦と言葉を交わしても、淡々とした物腰を崩さず、そこから、自分に対するどんな感情も読み取ることはできなかった。
「俺はずっと、長嶺組が預けてくれる若頭たちの相談役を務めてきた。組長としての責務を立派に果たして、ゆくゆくは長嶺組の執行部に身を置くか、総和会に出向くか、極道の世界から身を引くか、行く末はさまざまだ」
ソファの背もたれにしっかりと身を預けて話す館野は、サングラスのおかげで視線がどこに向いているかまったく見えない。それは和彦をひどく落ち着かない気分にさせる。
「うちの組長は、どんどん上へと行ける人間だと思っている。補佐として仕えている三田村も同様だ。あいつは、人を支えるのに向いている。忠義心があって、誠実で、下の者にも慕われて。何より、本家の覚えもめでたい。俺は、次に三田村の後ろ盾になってやりたいと考えていた」
ここまで聞いて和彦は、顔を強張らせる。館野が何を言おうとしているのか、ようやくわかってきたのだ。
館野が、ずいっと身を乗り出してくる。囁くような、しかし威圧感に満ちた声で言われた。
「――そろそろ、三田村を解放してくれないか? あんたにとっては、数いる男の一人だろう。しかし城東会にとっては、若頭補佐はあの男だけだ。いくら本家……長嶺組が許して、うちの組長も何も言わないとはいっても、下に示すべき道理ってものがある。いや、俺が示してほしい道理だな。はっきりいえば、あんたが気に食わない。いくら、使える医者だとしてもだ」
舌が強張って動かなかった。長嶺組組長という後ろ盾を持っている和彦は、三田村との関係に口出しされたくないと答えたところで許されるだろう。たとえ傲慢であろうとも。
そんな和彦の傲慢さで三田村を犠牲にするのかと、サングラスに隠れた館野の目はきっと非難しているはずだ。
「ぼくは――……」
和彦が口を開きかけたとき、壁の向こうで慌ただしい足音がしたかと思うと、応接室のドアがノックされる。応じる間もなく勢いよくドアが開き、いくぶん緊張した面持ちの三田村が姿を見せた。
一礼して応接室に入った三田村が館野の側まで歩み寄り、もう一度、今度は深々と頭を下げた。
「お疲れ様です、顧問」
「おう、三田村」
三田村が、ここで何をしているのかと問いたげな眼差しを、館野に向ける。館野は短く笑い声を洩らすと、和彦を指さした。
「事務所に顔を出したら、佐伯先生が来ていると聞いたからな。ちょっと挨拶をさせてもらっていたところだ。まあ、こんないかつい顔と向き合っていても、佐伯先生もおもしろくないだろうから、俺はそろそろ、三階に上がる。組長の体は空いているんだろ?」
「……ええ」
そうか、と応じて館野が立ち上がる。和彦は顔を強張らせたまま、館野が応接室を出て行く姿を目で追うことすらできなかった。
窓を開けて外を眺めていると、午前中、館野に言われた言葉がどうしても頭の中を駆け巡る。
いつかは、誰かに言われてもおかしくない言葉だった。ただ、面と向かってぶつけられると、やはり動揺する。
和彦の心はざわつき、三田村とのんびりと外で楽しむ気分ではなくなった。結局、少し早めの昼食を済ませたあと、食料などを買い込んでから、いつも二人で過ごしている部屋へと移動した。
「―――先生、何か飲むか?」
声をかけられて振り返ると、三田村がキッチンに立っていた。すでにもうスーツから、寛ぐための格好へと着替えている。
「ありがとう。でも、今はいい……」
「すまない。名刺入れを車に置いてきたようだ。――城東会顧問の、館野だ」
「……佐伯です」
「ようやく、あんたに会えた。一度じっくり、話してみたいと思っていたんだ。うちの組長……、ああ、城東会のな。長嶺組の組長のことは、俺は〈本家〉組長と呼んでいるんだ。で、うちの組長が、あんたのことを褒めていた。何度か、言葉を交わしたことがあるんだろう?」
「ええ。行事のたびに、ご挨拶をさせていただいています」
「会うたびに、驚かされると言っていた。いかにも堅気だった色男が、図太く、したたかに、うちらの世界に染まってきているという意味で。上手く立ち回っているとも言っていた」
和彦は、館野が〈うちの組長〉と呼ぶ男の姿を、脳裏に思い浮かべる。四十代前半で、ヤクザというより、有能な経営者を思わせる知的な雰囲気を漂わせて、物静かな人物だった。和彦と言葉を交わしても、淡々とした物腰を崩さず、そこから、自分に対するどんな感情も読み取ることはできなかった。
「俺はずっと、長嶺組が預けてくれる若頭たちの相談役を務めてきた。組長としての責務を立派に果たして、ゆくゆくは長嶺組の執行部に身を置くか、総和会に出向くか、極道の世界から身を引くか、行く末はさまざまだ」
ソファの背もたれにしっかりと身を預けて話す館野は、サングラスのおかげで視線がどこに向いているかまったく見えない。それは和彦をひどく落ち着かない気分にさせる。
「うちの組長は、どんどん上へと行ける人間だと思っている。補佐として仕えている三田村も同様だ。あいつは、人を支えるのに向いている。忠義心があって、誠実で、下の者にも慕われて。何より、本家の覚えもめでたい。俺は、次に三田村の後ろ盾になってやりたいと考えていた」
ここまで聞いて和彦は、顔を強張らせる。館野が何を言おうとしているのか、ようやくわかってきたのだ。
館野が、ずいっと身を乗り出してくる。囁くような、しかし威圧感に満ちた声で言われた。
「――そろそろ、三田村を解放してくれないか? あんたにとっては、数いる男の一人だろう。しかし城東会にとっては、若頭補佐はあの男だけだ。いくら本家……長嶺組が許して、うちの組長も何も言わないとはいっても、下に示すべき道理ってものがある。いや、俺が示してほしい道理だな。はっきりいえば、あんたが気に食わない。いくら、使える医者だとしてもだ」
舌が強張って動かなかった。長嶺組組長という後ろ盾を持っている和彦は、三田村との関係に口出しされたくないと答えたところで許されるだろう。たとえ傲慢であろうとも。
そんな和彦の傲慢さで三田村を犠牲にするのかと、サングラスに隠れた館野の目はきっと非難しているはずだ。
「ぼくは――……」
和彦が口を開きかけたとき、壁の向こうで慌ただしい足音がしたかと思うと、応接室のドアがノックされる。応じる間もなく勢いよくドアが開き、いくぶん緊張した面持ちの三田村が姿を見せた。
一礼して応接室に入った三田村が館野の側まで歩み寄り、もう一度、今度は深々と頭を下げた。
「お疲れ様です、顧問」
「おう、三田村」
三田村が、ここで何をしているのかと問いたげな眼差しを、館野に向ける。館野は短く笑い声を洩らすと、和彦を指さした。
「事務所に顔を出したら、佐伯先生が来ていると聞いたからな。ちょっと挨拶をさせてもらっていたところだ。まあ、こんないかつい顔と向き合っていても、佐伯先生もおもしろくないだろうから、俺はそろそろ、三階に上がる。組長の体は空いているんだろ?」
「……ええ」
そうか、と応じて館野が立ち上がる。和彦は顔を強張らせたまま、館野が応接室を出て行く姿を目で追うことすらできなかった。
窓を開けて外を眺めていると、午前中、館野に言われた言葉がどうしても頭の中を駆け巡る。
いつかは、誰かに言われてもおかしくない言葉だった。ただ、面と向かってぶつけられると、やはり動揺する。
和彦の心はざわつき、三田村とのんびりと外で楽しむ気分ではなくなった。結局、少し早めの昼食を済ませたあと、食料などを買い込んでから、いつも二人で過ごしている部屋へと移動した。
「―――先生、何か飲むか?」
声をかけられて振り返ると、三田村がキッチンに立っていた。すでにもうスーツから、寛ぐための格好へと着替えている。
「ありがとう。でも、今はいい……」
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