血と束縛と

北川とも

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第37話

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「それ、秦さんがやけに大事そうに保管していたんですよ。中身はなんですか?」
 和彦は、さきほど見た中嶋と青年の姿を必死に頭の中から追い払い、箱から取り出したものを見せる。透明なフレームで覆われた温湿度計で、インテリア小物として見てもオシャレなものだ。
「……すごく、いい。さすが、雑貨屋のオーナー。ぼくなんかとは、センスが違うな」
「先生の部屋に飾るんですから、気合いを入れて選びましたよ」
 顔が強張りかけたが、上手く誤魔化せたはずだ。マグカップも温湿度計も、総和会本部で和彦にあてがわれた部屋に飾るつもりで探していたのだ。もっとも今、そんなことをわざわざ説明する必要はない。
 ただ、いつかはあの部屋に戻らなければいけないのだと思うと、酔いで浮かれていた気持ちが少し沈みそうになった。
「先生?」
 中嶋の手が肩にかかる。和彦はなんでもないと首を横に振る。
「久しぶりに楽しく飲んだから、酔いの回りが早かったみたいだ。……明日も仕事があるから、この辺りでお暇させてもらうよ」
「ああ、じゃあ、外で待っている護衛の人に、ここまで迎えに来てもらいましょう。途中で転びでもしたら大変だ」
 それは大げさだと言いたかったが、中嶋は自分の携帯電話を取り出し、てきぱきと連絡を取り始める。さすが、長嶺組と総和会公認の和彦の〈遊び相手〉だけあって、手慣れている。
 皮肉ではなく、長嶺賢吾という男は、オンナのために立派な檻を作り上げているのだと、まるで他人事のように和彦は感心していた。


 夜遊びから戻ってきて、手早くシャワーを浴びたあと、書斎へと向かう。眠くて堪らないのだが、ベッドに潜り込む前にやっておくことがあった。
 和彦は膝を抱えるようにしてイスに座ると、携帯電話を手に取る。里見との連絡で使っているもので、今夜もメールが届いていた。いつものように簡潔な返信をしておこうとして、ふっと魔が差したように、佐伯家の様子を問う文面を打ち込んでいた。
 ただし、そのメールを送ることはなかった。我に返り、自分が何かに操られていたのではないかと、急に空恐ろしさを感じたのだ。慌てて内容を消去して、携帯電話を置く。
 直視を避けたところで、いつかは直面しなければならないのは、佐伯家――俊哉のことだ。すでにもう、和彦の居場所は知られており、いつ俊哉が行動を起こしても不思議ではない。それに、『準備が整うまで』という発言も気になる。
 できることなら、長嶺の男たちを巻き込まず、あくまで父子間の問題として対応したいが、不可能だろう。
 和彦を除いた佐伯家と、長嶺家の男たちは、覇気も野心もありすぎる。
 ふいに不安感に襲われ、大きく身を震わせる。精神状態が落ち着いてくると、ベッドの上での鷹津の仕打ちを冷静に辿ることができるようになっていた。当然、その最中の俊哉との電話でのやり取りも。
 睡眠薬で意識が朦朧としていたせいか、ところどころ記憶が霞みがかったようになっている。その霞みの中に、とても大事なことが隠れているようで、和彦の神経をチクチクと刺激してくる。
 確かに、俊哉は言ったのだ。さりげなく、しかし針のように鋭い何かを――。
 頭が重くなってきて、堪え切れず大きくため息をつく。和彦は抱えた膝にあごをのせると、もう一台の携帯電話を手にした。
 帰り際、中嶋がそっと耳打ちしてきた言葉を思い出し、じわりと胸の奥が熱くなる。切迫しかけていた気持ちが、あっという間に楽になった。
『先生がいなくなったと知らされて、秦さんのもとに駆け付けた三田村さんの剣幕は、凄まじかったそうですよ。あの人に何かあったら、長嶺組長がなんと言おうが、お前と鷹津を殺す、と言ったみたいです。先生は大変な人に想われていると、秦さんが苦笑いしていました』
 三田村から寄せられる想いは、空気のようだ。身近にあって当然で、なくなることを疑ってもいない。ときおり意識して、ほっとして、そしてまた忙しい日常の中、存在を意識することはなくなる。
 和彦は鷹津を想って涙を流した。そんな和彦を抱き締めて、三田村は何を思ったのだろうか。
 ここのところずっと、三田村と電話ですら話していない。和彦の精神状態が落ち着くまで、男たちは息を潜めるように接触を絶ってくれていたが、それももう終わりだ。何事もなかったように長嶺の男たちと会い、今夜は、秦と中嶋と夜遊びもした。
 和彦はいつもの自分を取り戻したのだ。
 だから――三田村の声を聞きたい。何より、会いたい。

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