血と束縛と

北川とも

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第37話

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 隣に座っている千尋が、大きなため息をつく。ウィンドーのほうに顔を向けていた和彦は、つい顔をしかめていた。
 車に乗り込んでからずっとこの調子で、これが一体何度目のため息なのか、両手の指を使っても足りなくなったところで、和彦は数えるのをやめてしまった。
 一体何が気に食わないのか――と聞くまでもない。わかっているからこそ和彦は、さきほどから千尋のため息に対して、聞こえないふりを続けていた。しかし、千尋も負けていない。こっちを見ろと言わんばかりに、もう一度大きなため息をつく。
 二人のあからさまな意地の張り合いに、車の前列に座っている組員たちが、さきほどから目に見えてハラハラしている。
 これ以上、車中の空気を微妙にしては悪いと、ささやかに大人としての配慮が働いた結果、和彦は横目でじろりと千尋を睨みつけ、片手を伸ばす。日に焼けた引き締まった頬を抓り上げた。
「いででっ」
「お前はさっきからうるさい。言いたいことがあるなら、言葉にしろ」
 和彦が注意をすると、途端に千尋が、恨みがましさたっぷりの視線を向けてきた。
「言っていいの?」
「……よくないけど、これ以上、鬱陶しいため息を聞かされるのは堪らないからな」
 実は聞くまでもないが、和彦に話さないと、千尋も気が済まないのだろう。
 つまり、こういうことだ。ひと月ほど塞ぎ込んでいた和彦がようやく立ち直り、久し振りに本宅に宿泊した日、たまたま千尋は、総和会本部に出向いていた。当初は深夜に帰宅する予定だったらしいが、守光に引き留められ、素直に一泊したそうだ。
「本宅に戻って、さっきまで先生がいたと教えられたときの、俺の気持ちがわかる? オヤジの奴、抜け駆けみたいなことしてさ」
 お前は三連休前に、一人でマンションを訪れた挙げ句、ちゃっかり一泊して帰ったではないか――。
 和彦はそう指摘したくて堪らないが、長嶺の男特有の強引な理屈で返されると、正直面倒だ。それにあのときは、まだ本調子とはいえず、甘えてくる千尋の情熱のすべてを受けとめることはできなかったため、拗ねる気持ちも理解できる。
「――……連絡ぐらいくれてもよかっただろ。そうしたら俺、急いで戻ったのに」
 ぼそぼそと千尋が続け、和彦の心は罪悪感で痛む。賢吾と二人きりで過ごしたことだけではなく、御堂の実家で、玲と関係を持ったことも、罪悪感に拍車をかける。
「連絡しなかったのは、悪かった。だけど、会長に呼ばれて出かけたお前を、ぼくが本宅にいるからという理由だけで、呼び戻せるわけないだろう。お前と会長に気をつかわせることになるぐらいなら、連絡しなくてよかったんだ」
「オヤジとしては、いい厄介払いができたと思ってるだろうけど」
「……そういうことを言うなよ」
 軽く窘めてから、今度は和彦がため息をつく番だった。三世代の長嶺の男たちの中で、やはりどうしても、一番若い千尋の存在が後回しになってしまうのだ。軽んじているわけではないが、和彦を従わせることができるのは誰か、という点で考えると、優先順位はおのずと決まる。
「あまり拗ねるな。近いうちにゆっくり時間を取るから」
「拗ねたくもなるよ。今夜は、先生に見せたいものがあったから――」
 意味ありげに言葉を切った千尋が、再び恨みがましさたっぷりの視線を向けてくる。
 実は今夜、千尋が誘ってくるより先に、和彦を夜遊びに誘った人物がいる。車は今、その人物の元に向かっているのだ。なぜか途中、千尋が車に乗り込んできたのには驚いたが。
「先生がやっと夜遊びできるぐらい元気になったのは、まあ嬉しいけどね」
「……ありがたかったよ。お前も含めて、みんな、ぼくの扱い方を心得てくれていて。おかげで、ゆっくりできた」
「みんな、先生に嫌われたくないからね」
 千尋が一瞬ちらりと、苦い表情を浮かべる。和彦が、自宅とクリニックを往復するだけの生活を送っている間、千尋なりに思うところがあったのだろう。
 和彦は、抓ったばかりの千尋の頬を、今度は優しく撫でる。
「さっき言った、見せたいものってなんだ?」
「それは今度、じっくりお披露目ってことで。気になるなら、早く時間取ってね」
 この発言で察した和彦が答えを口にしようとしたとき、千尋が前方を指さす。長嶺組が管理している雑居ビルが見えていた。あのビルの最上階に暮らすのは、華やかな美貌と怪しい素性を持つ青年実業家である、秦だ。そして、和彦の遊び相手でもある。
「――心配だよなー」
 ビルを睨みつけながら、千尋が洩らす。
「何がだ?」
「先生を、〈あいつ〉に会わせるの」
 千尋が言わんとしていることを察した和彦は、微苦笑を浮かべる。

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