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第37話
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連休が明け、抱えた厄介事が解決するどころか、さらに増えていることに、和彦は一人悄然としていた。
それでも、鬱屈したものがいくらか軽くなっているように感じるのは、単なる錯覚か、現実逃避の結果か。もしくは、自分がさらにしたたかに、ふてぶてしくなったのか――。
後部座席のシートにぐったりと身を預け、和彦はぼんやりとそんなことを考えながら、外の様子に目を向ける。どんどん日が落ちるのが早くなってきていることに、夕方のひんやりとした風とともに季節の移り変わりを実感する一時だ。
仕事終わりの疲労感に浸りながら、このまままっすぐ自宅マンションに向かいたいところだが、そうもいかない。これから守光と、外で食事をとることになっているのだ。
総和会本部に呼ばれなかっただけ、まだずいぶん配慮してもらっているのだろうが、朝、守光本人から連絡が入ったときは、和彦は胃を締め上げられるような痛みに襲われた。
守光には、鷹津のことで確かめておきたいことがある一方で、俊哉との接触や、連休中の玲との行動について、絶対に隠し通さなければならない。上手く立ち回れる自信はまったくなく、恐ろしい狐に翻弄される自分の姿が、容易に想像がつく。
車が向かったのは、和彦も何度か訪れている料亭だった。
案内された座敷にはすでに、寛いだ様子の守光がおり、和彦の顔を見るなり穏やかに笑いかけてくる。その笑顔の裏にあるものを読み取りたい衝動に駆られたが、ぐっと抑える。
席につく前に和彦は、まず畳の上で正座をしてから守光に頭を下げた。
「一か月近く、電話のみの応対となりまして、不義理をいたしました。それにもかかわらず、暖かく見守っていただき、ありがとうございます。……長嶺会長だけではなく、賢吾さんも……」
「頭を下げられるようなことは、わしは何もしていない。繊細なあんたをさらに追い詰めるのが怖くて、何も手助けをしてやれなかった。上手くやったのは、賢吾だ。何かとあんたを構いたがるわしを、あれが止めてくれたんだ。今は〈和彦〉をそっとしておいてほしいと言ってな」
驚いて頭を上げると、ゆっくりと頷いた守光が、向かいの座椅子を手で示す。和彦は素直に席についた。
「込み入った話はあとにしよう。まずは食事だ」
守光の言葉に、和彦はぎこちなく笑みを浮かべる。
すぐに料理が運ばれてきて目の前に並べられる。特に空腹だと感じてはいなかったが、守光とともに食前酒をゆっくりと味わっていると、強張っていた胃も正常に働き始めたらしい。急速に食欲が湧いてきた。
食事中の会話は、ごく他愛ないものだった。もっとも、総和会内で起こった出来事について語っているのだから、一般人からすると、物騒きわまりない内容なのかもしれないが。
近いうちに総和会本部の敷地内で工事が行われると聞き、和彦は興味を惹かれる。
「どこを工事するのですか?」
「テニスコートだよ。あっても困るものではないからと、ずっとそのままにしていたんだが、誰も使う者もいないのに、あれだけの広さの土地を遊ばせておくのも勿体ない。一旦潰して整地したあとに、若い者たちが詰められる建物でも作ろうかという話になっている」
総和会総本部は比較的、関係者であれば誰でも出入りが許される空気があったが、守光の住居も兼ねている本部は特別だ。中嶋も、和彦と一緒であっても中には入れないという口ぶりだったことを思い出す。守光の話は、その辺りの違いも考慮しているのかもしれない。
ふと思い出したことがあり、和彦はちらりと笑みをこぼす。
「どうかしたかね?」
「あっ、いえ……、千尋から、本部のテニスコートでテニスをしようと言われたことを思い出して」
「だったら工事に入る前に、やってみるかね?」
和彦は慌てて首を横に振る。
「千尋にしても、本気ではなかったのだと思います。それにぼくは……、ボールを使うスポーツは下手なんです」
守光は、じっと和彦を見つめたあと、顔を綻ばせた。なるほど、と納得したのかもしれない。
料理自体はいつも通り美味しく、デザートまで堪能した和彦だが、お茶を飲んで一息ついたときには、一度は解れていた緊張感に襲われる。
座卓の上が片付けられ、仲居が座敷を出ていく。襖が閉められると同時に守光が口を開いた。
「――清道会の会長は元気だったかね」
わずかに肩を揺らした和彦は、守光が咎める様子ではないことにいくらか安堵しつつ、頷いた。
「はい。ご挨拶をさせていただきましたが、顔色はずいぶんよかったと思います。……最近は体調を崩し気味だと聞かされましたが、とてもそんなふうには見えませんでした」
それでも、鬱屈したものがいくらか軽くなっているように感じるのは、単なる錯覚か、現実逃避の結果か。もしくは、自分がさらにしたたかに、ふてぶてしくなったのか――。
後部座席のシートにぐったりと身を預け、和彦はぼんやりとそんなことを考えながら、外の様子に目を向ける。どんどん日が落ちるのが早くなってきていることに、夕方のひんやりとした風とともに季節の移り変わりを実感する一時だ。
仕事終わりの疲労感に浸りながら、このまままっすぐ自宅マンションに向かいたいところだが、そうもいかない。これから守光と、外で食事をとることになっているのだ。
総和会本部に呼ばれなかっただけ、まだずいぶん配慮してもらっているのだろうが、朝、守光本人から連絡が入ったときは、和彦は胃を締め上げられるような痛みに襲われた。
守光には、鷹津のことで確かめておきたいことがある一方で、俊哉との接触や、連休中の玲との行動について、絶対に隠し通さなければならない。上手く立ち回れる自信はまったくなく、恐ろしい狐に翻弄される自分の姿が、容易に想像がつく。
車が向かったのは、和彦も何度か訪れている料亭だった。
案内された座敷にはすでに、寛いだ様子の守光がおり、和彦の顔を見るなり穏やかに笑いかけてくる。その笑顔の裏にあるものを読み取りたい衝動に駆られたが、ぐっと抑える。
席につく前に和彦は、まず畳の上で正座をしてから守光に頭を下げた。
「一か月近く、電話のみの応対となりまして、不義理をいたしました。それにもかかわらず、暖かく見守っていただき、ありがとうございます。……長嶺会長だけではなく、賢吾さんも……」
「頭を下げられるようなことは、わしは何もしていない。繊細なあんたをさらに追い詰めるのが怖くて、何も手助けをしてやれなかった。上手くやったのは、賢吾だ。何かとあんたを構いたがるわしを、あれが止めてくれたんだ。今は〈和彦〉をそっとしておいてほしいと言ってな」
驚いて頭を上げると、ゆっくりと頷いた守光が、向かいの座椅子を手で示す。和彦は素直に席についた。
「込み入った話はあとにしよう。まずは食事だ」
守光の言葉に、和彦はぎこちなく笑みを浮かべる。
すぐに料理が運ばれてきて目の前に並べられる。特に空腹だと感じてはいなかったが、守光とともに食前酒をゆっくりと味わっていると、強張っていた胃も正常に働き始めたらしい。急速に食欲が湧いてきた。
食事中の会話は、ごく他愛ないものだった。もっとも、総和会内で起こった出来事について語っているのだから、一般人からすると、物騒きわまりない内容なのかもしれないが。
近いうちに総和会本部の敷地内で工事が行われると聞き、和彦は興味を惹かれる。
「どこを工事するのですか?」
「テニスコートだよ。あっても困るものではないからと、ずっとそのままにしていたんだが、誰も使う者もいないのに、あれだけの広さの土地を遊ばせておくのも勿体ない。一旦潰して整地したあとに、若い者たちが詰められる建物でも作ろうかという話になっている」
総和会総本部は比較的、関係者であれば誰でも出入りが許される空気があったが、守光の住居も兼ねている本部は特別だ。中嶋も、和彦と一緒であっても中には入れないという口ぶりだったことを思い出す。守光の話は、その辺りの違いも考慮しているのかもしれない。
ふと思い出したことがあり、和彦はちらりと笑みをこぼす。
「どうかしたかね?」
「あっ、いえ……、千尋から、本部のテニスコートでテニスをしようと言われたことを思い出して」
「だったら工事に入る前に、やってみるかね?」
和彦は慌てて首を横に振る。
「千尋にしても、本気ではなかったのだと思います。それにぼくは……、ボールを使うスポーツは下手なんです」
守光は、じっと和彦を見つめたあと、顔を綻ばせた。なるほど、と納得したのかもしれない。
料理自体はいつも通り美味しく、デザートまで堪能した和彦だが、お茶を飲んで一息ついたときには、一度は解れていた緊張感に襲われる。
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「――清道会の会長は元気だったかね」
わずかに肩を揺らした和彦は、守光が咎める様子ではないことにいくらか安堵しつつ、頷いた。
「はい。ご挨拶をさせていただきましたが、顔色はずいぶんよかったと思います。……最近は体調を崩し気味だと聞かされましたが、とてもそんなふうには見えませんでした」
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