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第36話
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しおりを挟むホテルでの朝食から戻ってきた和彦は、自分が使っている部屋を簡単に片づけると、やることがなくなってしまう。
今日、自宅マンションに戻るのだが、総和会からの呼び出しをうまく避けられるよう、連休を目一杯使ってこいと賢吾に言われているため、夕方近くまで御堂の実家に滞在させてもらうことになっている。つまり、それまで暇なのだ。
散歩にでも出かけたいところだが、そうなると、近くにあるという清道会の事務所から、わざわざ護衛のための組員を呼ぶことになる。その手間を思うと、考えるだけで億劫だ。
同じ屋根の下にいる御堂は誰かと電話で話し込んでおり、見るからに忙しそうな様子に、とても話し相手になってほしいとは言えない。
朝食後に聞かされた、伊勢崎父子の動向について気になっているのだが――。
Tシャツに着替えると、体に残る疲労感に耐えかねて、畳の上をごろりごろりと寝転がっていた和彦だが、覚悟を決めて起き上がる。
ここに戻ってくる車中では、なんとなく玲と会話が交わせなかった。何事もなかったように、このまま別れてしまうのが無難なのだろうが、それを許せない自分がいる。どうせ、さまざまな感情に責め苛まれるなら、抱えた疑問を少しでも解消しておきたかった。
和彦自身のためというのもあるが、結果として、長嶺組の――長嶺の血を持つ男たちのためになるのかもしれない。
和彦は、静かな廊下を通って玲が使っている部屋へと出向く。玲は、帰り仕度をほぼ終えていた。バッグだけではなく、土産物などが詰まった紙袋が四つ並んでいる光景に、思わず笑ってしまう。
「すごい量だな。帰りは飛行機なんだろ」
「御堂さんが、ここから宅配で送ると言ってくれたんで、甘えることにします」
「それがいいよ」
ここで会話が途切れる。和彦が立ち尽くしたまま次の言葉を迷っていると、畳の上に胡坐をかいて座り込んだ玲が、自分の傍らを手で示した。和彦は引き戸を閉めると、玲の側に座る。
「――もうすぐ君の迎えが来るようだから、最後にきちんと挨拶をしておこうと思ったんだ。ホテルでは、大人げない態度を取ってしまったし」
ようやく和彦が切り出すと、玲はほっとしたように顔を綻ばせた。
「変だと言われるかもしれませんけど、嬉しかったです。佐伯さんが、俺のことでムキになってくれて」
「それは……、変だ」
玲は短く声を上げて笑う。子供扱いしていたわけではないが、玲が怒るか、拗ねているのではないかと覚悟していただけに、笑顔を見せられるのは予想外過ぎた。
「連休中、君と一緒で楽しかった。本当に、いい息抜きができた。ありがと――」
前触れもなく、玲が畳に片手を突いたかと思うと、いきなりこちらに向かって身を乗り出してくる。和彦は驚きのあまり、まったく動けなかった。玲が、息もかかる距離まで顔を寄せ、今度は寂しげな表情となる。
「……本当に、何もなかったように振る舞うんですね。やっぱりこういうところで、経験の差が出るのかな。佐伯さんは平気そうな顔をしてるけど、俺は……つらくて堪らない、です」
ハッと我に返った和彦は立ち上がろうとしたが、その前に玲にしがみつかれて、二人一緒に畳の上に倒れ込む。わけがわからないまま身を捩ろうとしたが、のしかかってきたしなやかな体は意外な強靭さと強引さを見せ、和彦は押さえつけられていた。
「玲くんっ……」
「本当に、俺のほうが強いみたいですね」
気負った様子もなく玲がこんなことを言い、和彦はムキになって反論する。
「君に怪我をさせられないから、手加減しているんだからな。だいたい、ふざけているにしても、やりすぎだ」
「ふざけてないです。あなたに触れたいんです。もっと」
玲にきつく抱き締められて、一瞬息が詰まる。上目遣いに見つめてくる玲の眼差しは熱っぽく、切迫感に満ちていた。
「……夜が明けたら、夢は終わりだ。何度も言わせないでくれ。……本当に、君には申し訳ないことをした。子供に、自分勝手な理屈を押し付けた。ぼくはどうかしていた」
「そんな言い方しないでください。まるで、悪いことをしたみたいに」
「悪いことだよ。悪い大人たちが君に吹き込んだことは全部、忘れるんだ。君は受験勉強をして、大学に合格して、普通の大学生に――」
ふっと言葉を切った和彦は、玲の目を覗き込む。
「君は、組の仕事に関わるのか? ヤクザになるのか?」
玲が怖いほど真剣な顔となり、上体を起こす。ただし、腰の上にしっかりと乗られたため、抜け出すことはできない。
「本当のことを話さなかったら、佐伯さん、春まで俺のことを、少しは気にかけていてくれますよね」
「……いや。この家で別れたら、思い出さない。きっともう、ぼくと君が会うこともないだろうし」
「佐伯さんはともかく、俺はどこにでも行けますし、誰とでも会えます。なんといっても、普通の大学生になる予定ですから」
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