血と束縛と

北川とも

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第36話

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 慌てて水をとめた和彦は、ハンカチを取り出しながら洗面台の前から退く。
「ぼくは先に出ているから――」
 玲の横を通り過ぎようとして、腕を掴まれた。ハッとして玲を見ると、ひどく苦しげな顔をしていた。さきほどまで、愛想よく大人たちの会話に加わっていた青年と同一人物とは思えない。
「玲くん……?」
「――……佐伯さんの態度が、気になったんです。車の中で、俺と御堂さんが話をしてから、なんとなく、佐伯さんがよそよそしくなったみたいで。それに食事をしている間は、得体が知れないものを見るみたいに、ときどき俺のことを見てました」
 聡い子だなと、内心で驚きながらも和彦は、感情が表に出ないよう努める。
「気のせいだよ。……ちょっと驚いただけだ」
「佐伯さん、ヤクザは嫌いですか?」
「そんなことは言ってないっ」
 思わず声を荒らげた和彦は、すぐに我に返って口元に手をやる。
「……嫌いなんて言う権利はない。ぼくは、そのヤクザの稼ぐ金で生活しているんだから」
「じゃあ、俺のことは嫌いですか?」
 玲に試されていると、一瞬にして悟った。キッと睨みつけ、腕を掴む玲の手を振り払う。
「言っただろう。夜が明けたら、夢は終わりだと。君はあくまで、連休の間、一緒に連れ立ってあちこち行っただけの仲だ。だから、互いの事情に首は突っ込まない。……そのほうが、いい別れ方ができる」
 そう言い置いて和彦は、足早にレストルームを出る。出入り口のすぐ側に護衛の男たちが立っていたため、不意をつかれて面食らい、視線を逸らした先に、御堂が立っていた。和彦は、ちらりと背後を振り返ってから、御堂の元へと行った。
「御堂さん、聞きたいことがあるんですが……」
 声を潜めて話しかけると、灰色の髪を掻き上げて御堂は薄い笑みを浮かべた。
「玲くんとの、車の中での会話のことかな」
「……普通の高校生だとばかり思っていたので、あの物言いが気になって」
 どうしようかと思案するように、御堂が小首を傾げる。
「伊勢崎組が絡む案件は、しばらくは清道会と、第一遊撃隊で独占しておきたかったんだけどね。君に教えるとなると、執念深くて勘がいい誰かも、首を突っ込みたがるだろうな」
「やっぱり玲くんは、組の仕事に関わるつもりなんですか?」
「それはなんとも言えない。あの子自身がどこまで関わる気があるのか、わかっているのは、本人だけだ。わたしも昨夜、気になる報告を受けたばかりなんだ。――おそらく伊勢崎組長は、こちらへの進出を踏まえた動きをしている、と」
「進出って……」
 色素の薄い瞳が、ゾクリとするほど冷徹な光を湛える。その目で一瞥された和彦は、そっと息を呑んだ。
「事業を始めたいということで、物件を探しているそうだ。どうやら動いているのは伊勢崎組の者だけのようで、北辰連合会がどこまで噛んでいるかまでは不明だが。総和会に名を連ねる組が治める縄張りに、得体の知れない外部の組が入り込んできたらどうなるか、なんとなく想像はつくだろう」
「……入り込まれた組は、おもしろくないですね」
「ああ。ただそうだとしても、いきなり手を出して、抗争沙汰にはしない。あくまで話し合いで、平和的に事を運ぶ。一応、そういうことになっている。それに、例えば地方から出てきたばかりの初々しい大学生が、表看板として動いているとなれば、なおさら迂闊なことはできない。組の人間が何より避けたいのは、一般人を巻き込む事態だ。その一般人の父親が、何者であろうとね」
 ここまで聞いて和彦は、あっ、と声を洩らす。玲との会話を思い出していた。
 龍造が息子の進学に関して求めているのは、大学のランクではなく、こちらで大学生という身分を手に入れることだと、玲自身が話していた。それを聞いたとき和彦は、何かありそうだと感じたのだ。
 車中で玲と交わした会話の大半は、他愛ない世間話だ。しかし、綾瀬がわざわざつけてくれた部下が、微笑ましい気持ちで聞き流してくれるとは思えない程度に、和彦は裏の世界に染まっている。綾瀬だけではなく、御堂の耳にも入っていると考えるべきだろう。
 和彦はすべてが腑に落ちたような、妙に清々しい気分で苦笑を洩らしていた。
「――……長嶺父子とのつき合いで、骨身に刻みつけられたと思っていたんですけどね」
「この親にしてこの子ありと?」
 和彦が応じようとしたとき、玲がレストルームから出てくる。軽く周囲を見回してから、まっすぐこちらを見たので、咄嗟に和彦は視線を逸らしていた。

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