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第36話
(16)
しおりを挟むテーブルに広げた新聞の文字を漫然と目で追っていて、和彦はふと我に返る。さきほどから、内容がまったく頭に入っていないことに気づいたからだ。
ふっと息を吐くと、新聞を畳んで頬杖をつく。なんとなく落ち着かない気分でダイニングを見回す。整然すぎるほどに片付いているこの場にいるのは、今のところ和彦だけだ。
朝食は、御堂と二人でとったのだが、その後、御堂は、ゆっくりお茶でも飲んでいてくれと言い置いて、本人はダイニングを出て行った。
さきほど、ダイニングの前を通りかかった御堂は掃除機を持っていたので、部屋の掃除をしているようだ。和彦も手伝おうとイスから腰を浮かせかけたが、笑顔を浮かべた御堂に、しっかりと首を横に振られてしまった。
強い人だな、と思う。
昨日、不本意な形で龍造との行為を見られたあと、そんな必要はないのに和彦に謝罪してくれた。そのうえで、今朝は何事もなかったように接してくるのだ。もし和彦が当事者であったなら、感情がすべて表に出てしまい、とても落ち着いてはいられない。
経験や、背負った肩書き、精神力の強さまで、何から何まであまりに自分とは違いすぎると、和彦は危うくテーブルに突っ伏しそうになる。どうしても自分を卑下してしまうのは、昨夜の賢吾との電話も起因しているだろう。
和彦の胸の内すら見透かす男は、優しいのか残酷なのか、とんでもない〈冗談〉を言った。
そこまでしても、自分の中から鷹津の存在を追い出してしまいたいのだろうかと、電話を切ってから和彦は、賢吾の胸中を推し量らずにはいられなかった。
いまだに鷹津のことを考えると、胸苦しさに襲われる。こんなことすら、賢吾に対する背信行為に当たるのだろうかと問い質してみたいが、次の瞬間には、大蛇の体で締め上げられる自分の姿を想像する。
「――おはようございます」
ふいに傍らから声をかけられ、飛び上がるほど驚く。いつの間にか、Tシャツ姿の玲が立っていた。
「寝坊しました。昨夜、目覚ましをセットするの忘れて……」
決まり悪そうな顔でそう言った玲が、壁にかかった時計を見上げる。寝坊とはいっても、まだ九時になるかならないかだ。
心の中を読まれたわけでもないのに、和彦は妙な気恥ずかしさを覚えながら、ぎこちなく立ち上がる。
「休みなんだから、気にせずゆっくり寝ればいいのに」
「いえ、でも、今日も出かけるつもりだったし……」
「どこに行きたいか、考えた?」
「まあ……。移動にどれぐらい時間がかかるかわからないので、適当にピックアップしただけですけど」
「どうせ今日は一日フルで使えるんだから、気にしなくていいよ。――運転するの、ぼくじゃないし」
最後の言葉をぼそりと付け加えると、玲が目を丸くしたあと、ニヤリと笑った。その表情の一瞬ハッとするような鋭さは、どこか龍造を思わせる。
ただし――。和彦は片手を伸ばし、玲の少し硬い髪をくしゃくしゃと掻き乱した。
「寝癖ついてる」
半ば無意識の行動で、跳ねた髪先が可愛いなと思ったときには、手が動いていた。さすがに馴れ馴れしかったと、慌てて手を引こうとしたが、すかさずその手を玲に掴まれた。黒々とした瞳にまっすぐ見つめられ、さすがに怒らせたかと身構えたが、そうではなかった。
「昨日から思ってたんですが、佐伯さんて――」
「……何?」
「指、きれいですね」
玲の発言に和彦は、呆気に取られたあと、自分でもどうしようもない反応として顔を熱くする。完全に虚をつかれて、無防備な部分を抉られた気がした。
「えっ、と……、あり、がとう、かな?」
「男の人であまり見ないような指だから、つい目で追うんです」
玲に手を掴まれたまま、まじまじと指を見つめられる。和彦がどんな立場であるか知っていながら、玲に手を振り払われなかったのは、よかったというべきかもしれない。しかしそれでも、この流れは予想外だ。
玲は人懐こい性質ではないようだが、何かが好奇心を煽ったのかもしれない。それとも、十代特有の距離感なのだろうかと、とりあえず和彦は納得しておく。
「美容外科クリニックに勤め出したとき、世話好きの同僚からアドバイスされたんだ。美意識の高い女性の患者さんが多く来るから、身なりには気をつけろ。特に、手と指の手入れは念入りにしろ、って」
「佐伯さん、美容外科医なんですか」
そういえば玲には、医者としか言っていなかった。
「興味ある? 君は目鼻口元のバランスはいいし、顔の骨格もきれいだし、まだ成長途中だから、何もしなくていいだろ」
「……さすが、お医者さん。俺の骨格とか観察してたんですか」
「あー、引かないでくれ。君の顔を前に見たことがあるようで、なんか気になってたんだ」
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