866 / 1,268
第36話
(15)
しおりを挟む
気をつかわなくていいのにと、柔らかな苦笑を浮かべて窓に歩み寄る。もっとよく庭を眺めようとして、あくびを洩らす。
朝から気を張り詰め、午後からは玲と歩き回っていたので、さすがにもう動くのが億劫だ。今夜は安定剤の力を借りる必要はないだろう。いくら心配事があるにしても、安眠できそうだ。
ふっと表情を引き締めた和彦は、窓に額を押し当てる。オンナである自分を、玲はどんなふうに見ていただろうかと、夕食時の様子を思い出そうとする。しかし、玲はあくまで自然体だった。そう和彦には見えた。
だからこそ、明日は一緒に行動していいものかと悩んでいると、携帯電話が鳴った。相手が誰であるか確信して、文机の上に置いた携帯電話を取り上げる。
「……ぼくが連絡を忘れていると思って、かけてきたのか……」
開口一番、ため息交じりに和彦が言うと、電話の向こうから低い笑い声が聞こえてきた。
『疲れた先生が、もうウトウトしかけているんじゃないかと思ってな。まだ起きていたか?』
「かろうじて。実際、今日は疲れた……」
『ご苦労だったな。秋慈や、綾瀬さんからも連絡をもらって、丁寧に礼を言われた。二人とも、先生を褒めていたぞ』
まるで子供扱いだなと思ったが、賢吾や長嶺組の名に泥を塗らなかったというのなら、素直に受け入れておくべきだろう。
「綾瀬さんにはずいぶんお世話になったんだ。あとで改めてお礼を言わないと」
『その代わり、先生が子守りをしたんだろう』
一体なんのことかと思ったが、すぐに見当がついた。
「伊勢崎組長の息子さんのことか。子守りだなんて言ったら、失礼だ。高校三年生なのに。しかも、ずいぶんしっかりしている」
『うちの千尋よりもか?』
「……答えにくいことを聞かないでくれ」
話しながら和彦は、行儀が悪いと思いつつ布団の上に転がる。こうして賢吾と話していると、自分にとっての日常が戻ってきたような気がする。もちろん和彦にとっての日常とは、鷹津に連れ去られる以前のことを指している。
ささやかな胸の痛みを感じたが、押し隠すのは容易だ。
「子守りどころか、ぼくが気晴らしをさせてもらった。高校生と話すなんてずいぶん久しぶりだけど、やっぱり千尋とは全然違う。まあ、タイプからして違うんだけど」
『どうやら、先生を行かせて正解だったようだ。長嶺組と伊勢崎組との接触となると、清道会相手よりもさらに頭と気を使って、身構えもしなきゃならないんだが、な。先生が相手だと、向こうも勝手が違って困っただろう。伊勢崎組長こそ、息子を連れてきてよかったと思っているかもしれないが……」
警戒心を強く匂わせる一方で、どこか楽しげにも聞こえる賢吾の口調に、和彦は切り出さずにはいられなかった。
「――……なあ、あんたが『厄介』だと言っていた人物って、伊勢崎さんなのか」
『伊勢崎龍造。俺が会ったのは、ずいぶん昔だったがな。当時からアクの強い男だったが、秋慈の話を聞く限りじゃ、今も変わってないようだ』
「御堂さんの――」
『前に先生に話したな。秋慈をオンナにしていた男は二人いて、一人は綾瀬さん。もう一人は北陸の連合会の大幹部になっていると。ああ、伊勢崎組長だ』
御堂を抱いている現場を見たので、よくわかっているとは言えない。御堂の心情を慮れば、何もかも報告すればいいとは思えなかった。
『北辰連合会は絶えず火種を抱えて、暴発させているような組織で、ここ最近は落ち着いてきたとはいえ、だからといって総和会のようにまとまって、安定しているというわけではない。そんな組織の中核に居座っている男だ。なんの考えもなく、清道会会長の祝いの席に来るとも思えない。思惑がわからねー以上、俺は迂闊に接触したくなかった。だが、興味はある』
「……御堂さんや綾瀬さんは、なんて言ってたんだ?」
『何も。俺は、長嶺組の組長であると同時に、今の総和会会長の息子だ。清道会が掴んでいる情報をすべて教えろと言うのは、ムシがよすぎるだろう。俺としても、オヤジの利益のために、昔馴染みを利用する気はないしな』
和彦はふと、清道会会長の祝いの席で目にした、伊勢崎父子の姿を思い返す。日頃の父子関係をよく表わしていると感じたし、今賢吾が電話越しに話しているのもまた、独特の父子関係を表しているといえる。
人それぞれに父子関係はあるのだと、いまさらなことを和彦は実感していた。
「難しい話は、ぼくには関係ない。少なくとも、伊勢崎組長の息子さんは、いい子だと思った。ぼくにはそれで十分だ。……高校生があんなに可愛いものだと思わなかった」
『さっきからベタ褒めだな。千尋が聞いたら妬きそうだ。それに、俺も』
冗談として受け止め、和彦は声を洩らして笑っていた。すると、優しい声音で賢吾が言う。
『ようやく、笑い声を聞かせてくれた』
和彦は顔を強張らせる。さらに賢吾は続けた。
『〈あの男〉を忘れろとは言わん。だが、いつまでも気持ちを傾けすぎだ。先生が気持ちのバランスを取れるようになるというなら、俺としてはいっそのこと、他の男と浮気でもしてくれたらと思う』
「浮気、なのか……」
『遊びは許す。本気は許さん。それだけだ』
簡単に言って退ける賢吾を、何様だと思いはするものの、一方で、この男らしいと納得もしてしまう。
「……あんたの冗談は、毒気が強すぎる」
『長嶺の男が放つ毒気には慣れてるだろ、先生』
迂闊な返事はできなくて、結局和彦は黙ったまま電話を終えた。
朝から気を張り詰め、午後からは玲と歩き回っていたので、さすがにもう動くのが億劫だ。今夜は安定剤の力を借りる必要はないだろう。いくら心配事があるにしても、安眠できそうだ。
ふっと表情を引き締めた和彦は、窓に額を押し当てる。オンナである自分を、玲はどんなふうに見ていただろうかと、夕食時の様子を思い出そうとする。しかし、玲はあくまで自然体だった。そう和彦には見えた。
だからこそ、明日は一緒に行動していいものかと悩んでいると、携帯電話が鳴った。相手が誰であるか確信して、文机の上に置いた携帯電話を取り上げる。
「……ぼくが連絡を忘れていると思って、かけてきたのか……」
開口一番、ため息交じりに和彦が言うと、電話の向こうから低い笑い声が聞こえてきた。
『疲れた先生が、もうウトウトしかけているんじゃないかと思ってな。まだ起きていたか?』
「かろうじて。実際、今日は疲れた……」
『ご苦労だったな。秋慈や、綾瀬さんからも連絡をもらって、丁寧に礼を言われた。二人とも、先生を褒めていたぞ』
まるで子供扱いだなと思ったが、賢吾や長嶺組の名に泥を塗らなかったというのなら、素直に受け入れておくべきだろう。
「綾瀬さんにはずいぶんお世話になったんだ。あとで改めてお礼を言わないと」
『その代わり、先生が子守りをしたんだろう』
一体なんのことかと思ったが、すぐに見当がついた。
「伊勢崎組長の息子さんのことか。子守りだなんて言ったら、失礼だ。高校三年生なのに。しかも、ずいぶんしっかりしている」
『うちの千尋よりもか?』
「……答えにくいことを聞かないでくれ」
話しながら和彦は、行儀が悪いと思いつつ布団の上に転がる。こうして賢吾と話していると、自分にとっての日常が戻ってきたような気がする。もちろん和彦にとっての日常とは、鷹津に連れ去られる以前のことを指している。
ささやかな胸の痛みを感じたが、押し隠すのは容易だ。
「子守りどころか、ぼくが気晴らしをさせてもらった。高校生と話すなんてずいぶん久しぶりだけど、やっぱり千尋とは全然違う。まあ、タイプからして違うんだけど」
『どうやら、先生を行かせて正解だったようだ。長嶺組と伊勢崎組との接触となると、清道会相手よりもさらに頭と気を使って、身構えもしなきゃならないんだが、な。先生が相手だと、向こうも勝手が違って困っただろう。伊勢崎組長こそ、息子を連れてきてよかったと思っているかもしれないが……」
警戒心を強く匂わせる一方で、どこか楽しげにも聞こえる賢吾の口調に、和彦は切り出さずにはいられなかった。
「――……なあ、あんたが『厄介』だと言っていた人物って、伊勢崎さんなのか」
『伊勢崎龍造。俺が会ったのは、ずいぶん昔だったがな。当時からアクの強い男だったが、秋慈の話を聞く限りじゃ、今も変わってないようだ』
「御堂さんの――」
『前に先生に話したな。秋慈をオンナにしていた男は二人いて、一人は綾瀬さん。もう一人は北陸の連合会の大幹部になっていると。ああ、伊勢崎組長だ』
御堂を抱いている現場を見たので、よくわかっているとは言えない。御堂の心情を慮れば、何もかも報告すればいいとは思えなかった。
『北辰連合会は絶えず火種を抱えて、暴発させているような組織で、ここ最近は落ち着いてきたとはいえ、だからといって総和会のようにまとまって、安定しているというわけではない。そんな組織の中核に居座っている男だ。なんの考えもなく、清道会会長の祝いの席に来るとも思えない。思惑がわからねー以上、俺は迂闊に接触したくなかった。だが、興味はある』
「……御堂さんや綾瀬さんは、なんて言ってたんだ?」
『何も。俺は、長嶺組の組長であると同時に、今の総和会会長の息子だ。清道会が掴んでいる情報をすべて教えろと言うのは、ムシがよすぎるだろう。俺としても、オヤジの利益のために、昔馴染みを利用する気はないしな』
和彦はふと、清道会会長の祝いの席で目にした、伊勢崎父子の姿を思い返す。日頃の父子関係をよく表わしていると感じたし、今賢吾が電話越しに話しているのもまた、独特の父子関係を表しているといえる。
人それぞれに父子関係はあるのだと、いまさらなことを和彦は実感していた。
「難しい話は、ぼくには関係ない。少なくとも、伊勢崎組長の息子さんは、いい子だと思った。ぼくにはそれで十分だ。……高校生があんなに可愛いものだと思わなかった」
『さっきからベタ褒めだな。千尋が聞いたら妬きそうだ。それに、俺も』
冗談として受け止め、和彦は声を洩らして笑っていた。すると、優しい声音で賢吾が言う。
『ようやく、笑い声を聞かせてくれた』
和彦は顔を強張らせる。さらに賢吾は続けた。
『〈あの男〉を忘れろとは言わん。だが、いつまでも気持ちを傾けすぎだ。先生が気持ちのバランスを取れるようになるというなら、俺としてはいっそのこと、他の男と浮気でもしてくれたらと思う』
「浮気、なのか……」
『遊びは許す。本気は許さん。それだけだ』
簡単に言って退ける賢吾を、何様だと思いはするものの、一方で、この男らしいと納得もしてしまう。
「……あんたの冗談は、毒気が強すぎる」
『長嶺の男が放つ毒気には慣れてるだろ、先生』
迂闊な返事はできなくて、結局和彦は黙ったまま電話を終えた。
31
お気に入りに追加
1,391
あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

朝起きたら幼なじみと番になってた。
オクラ粥
BL
寝ぼけてるのかと思った。目が覚めて起き上がると全身が痛い。
隣には昨晩一緒に飲みにいった幼なじみがすやすや寝ていた
思いつきの書き殴り
オメガバースの設定をお借りしてます
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…
しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。
高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。
数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。
そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…


ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる