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第36話
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気をつかわなくていいのにと、柔らかな苦笑を浮かべて窓に歩み寄る。もっとよく庭を眺めようとして、あくびを洩らす。
朝から気を張り詰め、午後からは玲と歩き回っていたので、さすがにもう動くのが億劫だ。今夜は安定剤の力を借りる必要はないだろう。いくら心配事があるにしても、安眠できそうだ。
ふっと表情を引き締めた和彦は、窓に額を押し当てる。オンナである自分を、玲はどんなふうに見ていただろうかと、夕食時の様子を思い出そうとする。しかし、玲はあくまで自然体だった。そう和彦には見えた。
だからこそ、明日は一緒に行動していいものかと悩んでいると、携帯電話が鳴った。相手が誰であるか確信して、文机の上に置いた携帯電話を取り上げる。
「……ぼくが連絡を忘れていると思って、かけてきたのか……」
開口一番、ため息交じりに和彦が言うと、電話の向こうから低い笑い声が聞こえてきた。
『疲れた先生が、もうウトウトしかけているんじゃないかと思ってな。まだ起きていたか?』
「かろうじて。実際、今日は疲れた……」
『ご苦労だったな。秋慈や、綾瀬さんからも連絡をもらって、丁寧に礼を言われた。二人とも、先生を褒めていたぞ』
まるで子供扱いだなと思ったが、賢吾や長嶺組の名に泥を塗らなかったというのなら、素直に受け入れておくべきだろう。
「綾瀬さんにはずいぶんお世話になったんだ。あとで改めてお礼を言わないと」
『その代わり、先生が子守りをしたんだろう』
一体なんのことかと思ったが、すぐに見当がついた。
「伊勢崎組長の息子さんのことか。子守りだなんて言ったら、失礼だ。高校三年生なのに。しかも、ずいぶんしっかりしている」
『うちの千尋よりもか?』
「……答えにくいことを聞かないでくれ」
話しながら和彦は、行儀が悪いと思いつつ布団の上に転がる。こうして賢吾と話していると、自分にとっての日常が戻ってきたような気がする。もちろん和彦にとっての日常とは、鷹津に連れ去られる以前のことを指している。
ささやかな胸の痛みを感じたが、押し隠すのは容易だ。
「子守りどころか、ぼくが気晴らしをさせてもらった。高校生と話すなんてずいぶん久しぶりだけど、やっぱり千尋とは全然違う。まあ、タイプからして違うんだけど」
『どうやら、先生を行かせて正解だったようだ。長嶺組と伊勢崎組との接触となると、清道会相手よりもさらに頭と気を使って、身構えもしなきゃならないんだが、な。先生が相手だと、向こうも勝手が違って困っただろう。伊勢崎組長こそ、息子を連れてきてよかったと思っているかもしれないが……」
警戒心を強く匂わせる一方で、どこか楽しげにも聞こえる賢吾の口調に、和彦は切り出さずにはいられなかった。
「――……なあ、あんたが『厄介』だと言っていた人物って、伊勢崎さんなのか」
『伊勢崎龍造。俺が会ったのは、ずいぶん昔だったがな。当時からアクの強い男だったが、秋慈の話を聞く限りじゃ、今も変わってないようだ』
「御堂さんの――」
『前に先生に話したな。秋慈をオンナにしていた男は二人いて、一人は綾瀬さん。もう一人は北陸の連合会の大幹部になっていると。ああ、伊勢崎組長だ』
御堂を抱いている現場を見たので、よくわかっているとは言えない。御堂の心情を慮れば、何もかも報告すればいいとは思えなかった。
『北辰連合会は絶えず火種を抱えて、暴発させているような組織で、ここ最近は落ち着いてきたとはいえ、だからといって総和会のようにまとまって、安定しているというわけではない。そんな組織の中核に居座っている男だ。なんの考えもなく、清道会会長の祝いの席に来るとも思えない。思惑がわからねー以上、俺は迂闊に接触したくなかった。だが、興味はある』
「……御堂さんや綾瀬さんは、なんて言ってたんだ?」
『何も。俺は、長嶺組の組長であると同時に、今の総和会会長の息子だ。清道会が掴んでいる情報をすべて教えろと言うのは、ムシがよすぎるだろう。俺としても、オヤジの利益のために、昔馴染みを利用する気はないしな』
和彦はふと、清道会会長の祝いの席で目にした、伊勢崎父子の姿を思い返す。日頃の父子関係をよく表わしていると感じたし、今賢吾が電話越しに話しているのもまた、独特の父子関係を表しているといえる。
人それぞれに父子関係はあるのだと、いまさらなことを和彦は実感していた。
「難しい話は、ぼくには関係ない。少なくとも、伊勢崎組長の息子さんは、いい子だと思った。ぼくにはそれで十分だ。……高校生があんなに可愛いものだと思わなかった」
『さっきからベタ褒めだな。千尋が聞いたら妬きそうだ。それに、俺も』
冗談として受け止め、和彦は声を洩らして笑っていた。すると、優しい声音で賢吾が言う。
『ようやく、笑い声を聞かせてくれた』
和彦は顔を強張らせる。さらに賢吾は続けた。
『〈あの男〉を忘れろとは言わん。だが、いつまでも気持ちを傾けすぎだ。先生が気持ちのバランスを取れるようになるというなら、俺としてはいっそのこと、他の男と浮気でもしてくれたらと思う』
「浮気、なのか……」
『遊びは許す。本気は許さん。それだけだ』
簡単に言って退ける賢吾を、何様だと思いはするものの、一方で、この男らしいと納得もしてしまう。
「……あんたの冗談は、毒気が強すぎる」
『長嶺の男が放つ毒気には慣れてるだろ、先生』
迂闊な返事はできなくて、結局和彦は黙ったまま電話を終えた。
朝から気を張り詰め、午後からは玲と歩き回っていたので、さすがにもう動くのが億劫だ。今夜は安定剤の力を借りる必要はないだろう。いくら心配事があるにしても、安眠できそうだ。
ふっと表情を引き締めた和彦は、窓に額を押し当てる。オンナである自分を、玲はどんなふうに見ていただろうかと、夕食時の様子を思い出そうとする。しかし、玲はあくまで自然体だった。そう和彦には見えた。
だからこそ、明日は一緒に行動していいものかと悩んでいると、携帯電話が鳴った。相手が誰であるか確信して、文机の上に置いた携帯電話を取り上げる。
「……ぼくが連絡を忘れていると思って、かけてきたのか……」
開口一番、ため息交じりに和彦が言うと、電話の向こうから低い笑い声が聞こえてきた。
『疲れた先生が、もうウトウトしかけているんじゃないかと思ってな。まだ起きていたか?』
「かろうじて。実際、今日は疲れた……」
『ご苦労だったな。秋慈や、綾瀬さんからも連絡をもらって、丁寧に礼を言われた。二人とも、先生を褒めていたぞ』
まるで子供扱いだなと思ったが、賢吾や長嶺組の名に泥を塗らなかったというのなら、素直に受け入れておくべきだろう。
「綾瀬さんにはずいぶんお世話になったんだ。あとで改めてお礼を言わないと」
『その代わり、先生が子守りをしたんだろう』
一体なんのことかと思ったが、すぐに見当がついた。
「伊勢崎組長の息子さんのことか。子守りだなんて言ったら、失礼だ。高校三年生なのに。しかも、ずいぶんしっかりしている」
『うちの千尋よりもか?』
「……答えにくいことを聞かないでくれ」
話しながら和彦は、行儀が悪いと思いつつ布団の上に転がる。こうして賢吾と話していると、自分にとっての日常が戻ってきたような気がする。もちろん和彦にとっての日常とは、鷹津に連れ去られる以前のことを指している。
ささやかな胸の痛みを感じたが、押し隠すのは容易だ。
「子守りどころか、ぼくが気晴らしをさせてもらった。高校生と話すなんてずいぶん久しぶりだけど、やっぱり千尋とは全然違う。まあ、タイプからして違うんだけど」
『どうやら、先生を行かせて正解だったようだ。長嶺組と伊勢崎組との接触となると、清道会相手よりもさらに頭と気を使って、身構えもしなきゃならないんだが、な。先生が相手だと、向こうも勝手が違って困っただろう。伊勢崎組長こそ、息子を連れてきてよかったと思っているかもしれないが……」
警戒心を強く匂わせる一方で、どこか楽しげにも聞こえる賢吾の口調に、和彦は切り出さずにはいられなかった。
「――……なあ、あんたが『厄介』だと言っていた人物って、伊勢崎さんなのか」
『伊勢崎龍造。俺が会ったのは、ずいぶん昔だったがな。当時からアクの強い男だったが、秋慈の話を聞く限りじゃ、今も変わってないようだ』
「御堂さんの――」
『前に先生に話したな。秋慈をオンナにしていた男は二人いて、一人は綾瀬さん。もう一人は北陸の連合会の大幹部になっていると。ああ、伊勢崎組長だ』
御堂を抱いている現場を見たので、よくわかっているとは言えない。御堂の心情を慮れば、何もかも報告すればいいとは思えなかった。
『北辰連合会は絶えず火種を抱えて、暴発させているような組織で、ここ最近は落ち着いてきたとはいえ、だからといって総和会のようにまとまって、安定しているというわけではない。そんな組織の中核に居座っている男だ。なんの考えもなく、清道会会長の祝いの席に来るとも思えない。思惑がわからねー以上、俺は迂闊に接触したくなかった。だが、興味はある』
「……御堂さんや綾瀬さんは、なんて言ってたんだ?」
『何も。俺は、長嶺組の組長であると同時に、今の総和会会長の息子だ。清道会が掴んでいる情報をすべて教えろと言うのは、ムシがよすぎるだろう。俺としても、オヤジの利益のために、昔馴染みを利用する気はないしな』
和彦はふと、清道会会長の祝いの席で目にした、伊勢崎父子の姿を思い返す。日頃の父子関係をよく表わしていると感じたし、今賢吾が電話越しに話しているのもまた、独特の父子関係を表しているといえる。
人それぞれに父子関係はあるのだと、いまさらなことを和彦は実感していた。
「難しい話は、ぼくには関係ない。少なくとも、伊勢崎組長の息子さんは、いい子だと思った。ぼくにはそれで十分だ。……高校生があんなに可愛いものだと思わなかった」
『さっきからベタ褒めだな。千尋が聞いたら妬きそうだ。それに、俺も』
冗談として受け止め、和彦は声を洩らして笑っていた。すると、優しい声音で賢吾が言う。
『ようやく、笑い声を聞かせてくれた』
和彦は顔を強張らせる。さらに賢吾は続けた。
『〈あの男〉を忘れろとは言わん。だが、いつまでも気持ちを傾けすぎだ。先生が気持ちのバランスを取れるようになるというなら、俺としてはいっそのこと、他の男と浮気でもしてくれたらと思う』
「浮気、なのか……」
『遊びは許す。本気は許さん。それだけだ』
簡単に言って退ける賢吾を、何様だと思いはするものの、一方で、この男らしいと納得もしてしまう。
「……あんたの冗談は、毒気が強すぎる」
『長嶺の男が放つ毒気には慣れてるだろ、先生』
迂闊な返事はできなくて、結局和彦は黙ったまま電話を終えた。
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