血と束縛と

北川とも

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第36話

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「仕事終わりのうえに、車での移動もあったから、疲れただろう?」
「いえ、慌しいのには慣れているんですけど、明日は何か粗相をしでかすんじゃないかと、それが心配で……」
「よほど仰々しい行事を想像しているのかもしれないけど、ただの傘寿の祝いの席だ。しかも、店を貸し切っての。集まっている面子が、少々強面揃いではあるが……」
 和彦が情けない顔をすると、ニヤリと鋭い笑みを浮かべた御堂が軽く手を叩く。
「さあ、風呂に入ってきて。その間に、布団を敷いておく。わたしは自分の部屋に引っ込むから、君もゆっくり過ごすといい。欲しいものがあれば、遠慮なく声をかけてくれ」
 御堂が立ち上がろうとしたので、和彦は咄嗟に呼び止める。急いで手土産を差し出し、頭を下げた。
「――今夜からお世話になります」


 明日のことを考えると眠れなくなりそうで、布団に入る前に和彦は安定剤を飲んでおいた。いかにも睡眠不足の情けない顔を人前に晒して、賢吾だけではなく、御堂の顔に泥を塗りたくなかったのだ。
 飲み慣れた薬なので、効き目についてはよく把握している。緩やかな眠気がやってきて、朝までぐっすり眠れるし、いままで特に具合が悪くなることはなかった。――いままでは。
 咳き込んで寝返りを打った和彦は、意識がぼんやりとした状態で真っ暗な天井を見上げる。不快さで目が覚めた。
 猛烈な眠気に促され、次の瞬間には意識を手放してしまいそうなのに、強烈な喉の渇きがそれを許してくれない。
 初めて訪れた場所で、しかも、ひどく緊張したまま横になったせいだろうかと考えながら、頭上に手を伸ばす。枕元のライトをつけて、ゆっくりと体を起こしたが、途端に頭がふらついた。
 再び布団の上に倒れ込みそうになりながらも、懸命に這い出し、壁にすがりつくようにして立ち上がる。足元が覚束ないうえに、力も入らず、スリッパも履くことができない。仕方なく、裸足のまま暗い廊下に出た。
 意識が朦朧としたまま、壁にもたれかかるようにして歩き出した和彦は、懸命に頭を働かせる。御堂に案内してもらったのに、キッチンがある方向がわからなくなっていた。
「……もう、ダメだ……」
 ズルズルとその場に座り込み、目を閉じそうになる。あまりの眠気で、そもそも自分が部屋を出た目的すら思い出せなくなりそうだ。
 もう一度咳き込み、水が飲みたいという本能のままに這おうとして、すぐにまた動けなくなる。半ば意識を失い――というより、眠り込んでしまっていたが、ふいに肩を掴まれ、軽く揺すられた。
「――大丈夫ですか?」
 聞き覚えのない若く硬い印象の声だった。この家には御堂しかいないはずなのにと、驚きよりも好奇心が意識を刺激する。
 和彦がうっすらと目を開けると、いつの間にか廊下に明かりが点いていた。ふらつく頭をなんとか上げると、浴衣姿の青年が床に膝をつき、和彦の顔を覗き込んでいる。
 青年は、若かった。千尋よりもさらに年下に見え、おそらく十代だ。でも、少年というには幼さは感じない。
 涼しげだが、憂いも感じさせる瞳は黒々としており、意志の強さを表すようなしっかりとした眉も相まって、清廉とした印象を受けた。整っているという表現では足りない、むしろきれいとさえ言っていい顔立ちだが、印象的な両目のおかげで、ひ弱さが完全に打ち消されている。
 初めて会った青年だと確信が持てる。それなのに、どこかで会ったような不思議な感覚にも襲われる。
 これは一体なんだろう――。
 力なく頭をゆらゆらと揺らしながら和彦は考える。再び目を閉じそうになったが、今度は少し強く肩を揺すられる。
「気分、悪いんですか?」
 ぶっきらぼうな話し方だが、不快ではなかった。
「……水、飲みたくて……。どこか、わからなくて……」
「どこか? ああ、キッチンか。でも――」
 青年の顔が急に近づいてきて、息もかかりそうな距離となる。和彦が知る限り、この距離は口づけの前触れだ。しかし、突然目の前に現れた青年がそんなことをするはずもない。
「酔っているのかと思ったんですが、酒の匂いはしませんね」
「えっ……、ああ、薬を……、眠りたくて、安定剤を飲んだから……」
「だったら、おとなしく部屋にいたほうがいいです。ふらふらしていたら、転んで怪我します」
 もっともな忠告だ。和彦は壁にすがりつくようにして立ち上がろうとしたが、足腰に力が入らない。すると、青年が肩を貸してくれる。浴衣越しに、しなやかな体つきと体温を感じることができた。立ち上がってわかったが、身長は和彦とほぼ変わらないぐらいだ。

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