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第35話
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確かに、部屋を解約し、携帯電話すらも繋がらなくなったため、残しておくべき情報はない。しかし、名すら残しておくことを許さないと、賢吾は行動で示した。
もしかすると、和彦の中にある鷹津の記憶すら、できることなら消去したいと考えているのかもしれない。
ため息をつきそうになった和彦だが、それは賢吾に対する背信行為のように思え、寸前のところで堪えた。
もう一台の携帯電話を取り上げると、メールが届いている。こちらの携帯電話は里見との連絡専用に使っているもので、そうなると当然、送り主は決まっている。
俊哉と電話で話して以来、里見からの連絡には一層神経質になっているのだが、今のところ、俊哉の話題が出ることはない。和彦と接触したことを、俊哉は里見に知らせていないのかもしれないが、こればかりは、機械を通した文面だけでは推測できない。だからといって、電話をかけてまで確認しようとは思わなかった。
自分のせいで、鷹津は職を失ったと和彦は思っている。同じような状況に、里見が陥らないとは限らないのだ。
里見の当たり障りのない内容のメールに、簡潔な返信をする。里見にとっては内容よりも、和彦から反応が返ってくること自体が、大事なのだそうだ。
周囲の男たちから注がれる配慮という名の優しさが、和彦の胸を苦しくさせる。
今夜も安定剤を飲んで休まなければいけないなと、ぼんやりと考える。そんな和彦の耳に、インターホンの音が届いた。
ありえないとわかっていながら、一瞬、鷹津ではないかと思ったが、即座にその可能性を否定する。このマンションの周囲を、長嶺組だけではなく、総和会が見張っているかもしれないのだ。あの男が迂闊に近づくはずがない。
もう一度、遠慮がちにインターホンが鳴らされる。和彦はほぼ相手を確信してインターホンに出た。
ベッドの上で、クッションにもたれかかって本を読んでいると、静かにドアが開き、人が部屋に入ってきた気配がした。和彦は視線を上げないまま問いかける。
「シャワーを浴びたか?」
「うん……」
「きちんと体と頭を洗ったんだろな。お前はいつもカラスの行水だからな」
千尋がもそもそとベッドに上がり、和彦の隣に遠慮がちに身を滑り込ませる。肩先に千尋の高い体温が伝わってきて、同時に、石けんの香りが鼻先を掠めた。ちらりと視線を向けると、シャワーを浴びて熱いのか、Tシャツに短パン姿だ。夜ともなると少し肌寒さを感じるようになったが、さすがに千尋には関係ないようだ。
千尋がこの部屋を訪れるのはいつ以来だろうかと、和彦は頭の片隅で計算する。
和彦が人を寄せ付けなくなり、仕事以外ではマンションにこもっていると知らされて、タイミングをうかがっていたのだろう。千尋は差し入れのケーキを携えてやってきた。
賢吾ですら部屋には入れていないため、当然のように千尋も追い返そうとしたのだ。だが、和彦の様子を知りたかっただけで、一緒にケーキを食べたらすぐに帰ると、らしくなく言葉を選びながら話す千尋を見ていると、とてもではないが邪険にはできなかった。こんなときでも、やはり千尋には甘くなる。
結局、ケーキを食べたあと、もう遅いから泊まって帰れと言ってしまい、和彦は本を読むふりをしつつ、なんとなく自己嫌悪に陥いる。
およそ半月の間、男たちとの接触を避けておきながら、こうして千尋が傍らにいると、自分が人寂しさを抱えていたのだと痛感したからだ。鷹津の心配をしながら、一方で他の男たちの存在を恋しがっている自分を、浅ましいと思う。その浅ましさを、誰にも知られたくないとも思う。
和彦の横顔から感じるものがあったのか、千尋が人懐こい犬のように、肩先に額をすり寄せてきた。
「はあ……、先生の感触と匂いだ……」
「大げさだな」
「……大げさじゃないよ。どれだけ先生の顔を見てなかったと思うんだよ」
恨みがましい声で言われた和彦は、前回、千尋と会ったときのことを思い返す。和彦が車で襲撃を受けた直後に、わざわざ心配してホテルの部屋まで駆けつけてくれたのだ。その前は、法要に託けた、ささやかな保養旅行だった。ただどちらも、人目を気にせず二人きりでゆっくりと、というわけにはいかなかった。
「忙しくて、お前とのんびりすることがなくなったな、そういえば……」
「俺も忙しいけど、先生はそれ以上だ。――先生を必要とする男が、それだけたくさんいる、ということだよね」
皮肉、という口ぶりではないが、千尋の言葉につい苦い顔となる。
「そういうのは……、もう疲れた。他人の事情を斟酌して、振り回されて、ビクビクして。……ぼくは、疲れたんだ」
「――俺とこうしていることも?」
もしかすると、和彦の中にある鷹津の記憶すら、できることなら消去したいと考えているのかもしれない。
ため息をつきそうになった和彦だが、それは賢吾に対する背信行為のように思え、寸前のところで堪えた。
もう一台の携帯電話を取り上げると、メールが届いている。こちらの携帯電話は里見との連絡専用に使っているもので、そうなると当然、送り主は決まっている。
俊哉と電話で話して以来、里見からの連絡には一層神経質になっているのだが、今のところ、俊哉の話題が出ることはない。和彦と接触したことを、俊哉は里見に知らせていないのかもしれないが、こればかりは、機械を通した文面だけでは推測できない。だからといって、電話をかけてまで確認しようとは思わなかった。
自分のせいで、鷹津は職を失ったと和彦は思っている。同じような状況に、里見が陥らないとは限らないのだ。
里見の当たり障りのない内容のメールに、簡潔な返信をする。里見にとっては内容よりも、和彦から反応が返ってくること自体が、大事なのだそうだ。
周囲の男たちから注がれる配慮という名の優しさが、和彦の胸を苦しくさせる。
今夜も安定剤を飲んで休まなければいけないなと、ぼんやりと考える。そんな和彦の耳に、インターホンの音が届いた。
ありえないとわかっていながら、一瞬、鷹津ではないかと思ったが、即座にその可能性を否定する。このマンションの周囲を、長嶺組だけではなく、総和会が見張っているかもしれないのだ。あの男が迂闊に近づくはずがない。
もう一度、遠慮がちにインターホンが鳴らされる。和彦はほぼ相手を確信してインターホンに出た。
ベッドの上で、クッションにもたれかかって本を読んでいると、静かにドアが開き、人が部屋に入ってきた気配がした。和彦は視線を上げないまま問いかける。
「シャワーを浴びたか?」
「うん……」
「きちんと体と頭を洗ったんだろな。お前はいつもカラスの行水だからな」
千尋がもそもそとベッドに上がり、和彦の隣に遠慮がちに身を滑り込ませる。肩先に千尋の高い体温が伝わってきて、同時に、石けんの香りが鼻先を掠めた。ちらりと視線を向けると、シャワーを浴びて熱いのか、Tシャツに短パン姿だ。夜ともなると少し肌寒さを感じるようになったが、さすがに千尋には関係ないようだ。
千尋がこの部屋を訪れるのはいつ以来だろうかと、和彦は頭の片隅で計算する。
和彦が人を寄せ付けなくなり、仕事以外ではマンションにこもっていると知らされて、タイミングをうかがっていたのだろう。千尋は差し入れのケーキを携えてやってきた。
賢吾ですら部屋には入れていないため、当然のように千尋も追い返そうとしたのだ。だが、和彦の様子を知りたかっただけで、一緒にケーキを食べたらすぐに帰ると、らしくなく言葉を選びながら話す千尋を見ていると、とてもではないが邪険にはできなかった。こんなときでも、やはり千尋には甘くなる。
結局、ケーキを食べたあと、もう遅いから泊まって帰れと言ってしまい、和彦は本を読むふりをしつつ、なんとなく自己嫌悪に陥いる。
およそ半月の間、男たちとの接触を避けておきながら、こうして千尋が傍らにいると、自分が人寂しさを抱えていたのだと痛感したからだ。鷹津の心配をしながら、一方で他の男たちの存在を恋しがっている自分を、浅ましいと思う。その浅ましさを、誰にも知られたくないとも思う。
和彦の横顔から感じるものがあったのか、千尋が人懐こい犬のように、肩先に額をすり寄せてきた。
「はあ……、先生の感触と匂いだ……」
「大げさだな」
「……大げさじゃないよ。どれだけ先生の顔を見てなかったと思うんだよ」
恨みがましい声で言われた和彦は、前回、千尋と会ったときのことを思い返す。和彦が車で襲撃を受けた直後に、わざわざ心配してホテルの部屋まで駆けつけてくれたのだ。その前は、法要に託けた、ささやかな保養旅行だった。ただどちらも、人目を気にせず二人きりでゆっくりと、というわけにはいかなかった。
「忙しくて、お前とのんびりすることがなくなったな、そういえば……」
「俺も忙しいけど、先生はそれ以上だ。――先生を必要とする男が、それだけたくさんいる、ということだよね」
皮肉、という口ぶりではないが、千尋の言葉につい苦い顔となる。
「そういうのは……、もう疲れた。他人の事情を斟酌して、振り回されて、ビクビクして。……ぼくは、疲れたんだ」
「――俺とこうしていることも?」
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