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第35話
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鷹津は何も言わず緩く腰を動かし始める。電話の向こうの俊哉に悟られまいと、和彦は声を押し殺しながら必死に逃れようとするが、睡眠薬の効き目はどんどん和彦の体と意識を侵食していく。
『お前に言いたいことはいろいろあるが、今はやめておこう。ただ、これだけは言っておく。――お前をずっと自由にはさせていたが、お前を手放すつもりは、まったくない。わたしそっくりの、大事で可愛い息子だからな。この言葉がウソでないことは、お前自身、よくわかっているだろう?』
電話から聞こえてくる俊哉の言葉が恐ろしかった。必死に記憶の片隅に追いやってきた光景が生々しく蘇り、当時、自分が抱いた感情すらも、思い出してしまう。
唇を戦慄かせ、呼吸すらも止めてしまいそうになっていると、和彦の異変に気づいた鷹津が、強く頬を撫でてくる。それでは足りないと思ったのか、内奥を強く突き上げてきた。
和彦は我に返り、うろたえる。意識を、電話の向こうにいる俊哉に向ければいいのか、目の前の鷹津に向ければいいのか、混乱していた。
「今は、やめてくれ。父さんに――」
何をしているか悟られてしまう、と言いたかったが、鷹津は酷薄な笑みを浮かべた。
「安心しろ。お前の父親は全部知っている。お前が長嶺の男たちのオンナになっていることも、俺とも寝ていることも。直接会って話したが、さすが、切れ者大物官僚……いや、お前の父親だな。顔色一つ変えなかった」
和彦が、自分の現状を実家に知られたくなかったのは、家族に迷惑をかけたくないという気持ちは当然だが、何より、佐伯家――俊哉が、長嶺の男たちを敵として認識することを恐れていたからだ。何もかも知られたとき、自分の扱いについて無難な解決がなされることはありえないと、和彦はよくわかっている。
佐伯家と接触するのは自分一人で、万が一にも、長嶺組や総和会の存在は一切匂わせてはいけないと考えていたが、和彦の希望は楽観的であり、悠長だったのだろう。
思いがけない人物に、先手を打たれてしまった。
「……どうして、あんたがそんなことを……」
鷹津は一瞬苦しげに顔をしかめたあと、携帯電話をちらりと見遣った。
「先に、自分の父親との話を済ませろ」
和彦はのろのろと片手を伸ばし、携帯電話を切ろうとしたが、あっさり鷹津に取り上げられる。
「話せよ。もうすぐ、口が回らなくなるぞ。久しぶりだろう。父親と話すのは」
「ぼくは――」
『長嶺守光と聞いて、懐かしい気持ちになった。あの男と関わりを持つとは、なかなか因縁めいたものを感じたな。どれだけ捜そうが、見つからないはずだと感心した。総和会や長嶺組の庇護下にいてはな……。しかも、交渉事をするには、これ以上なく厄介な相手だ』
そう言う俊哉の声は、ひたすら柔らかだった。不始末という一言では到底収まらない状況にいる和彦に対して、怒りも苛立ちも感じている様子はない。物心ついた頃から、俊哉はこうなのだ。息子に関心がないからこそ寛容であり、それが過ぎて、冷淡である。
しかし、さきほど俊哉が言った『大事で可愛い息子』という表現もまた、本人にとっては偽らざる本心だろう。
俊哉にとって和彦とは、血が繋がっているという理由以外でも、〈特別〉な存在なのだ。
『お前の居場所がわかったから、すぐに奪い返すというわけにはいかない。そう、単純な話ではないからな。あの男――化け狐は、取引相手としては誠実で有能だが……、ふん、少々欲深い。さすがのわたしも、慎重にならざるをえない』
睡眠薬で鈍くなっている和彦の意識を、何かが一瞬、鋭く刺した。それがなんであるか考えようにも、強烈な眠気に押し流され、自分が何を気にしたのかすらもわからなくなる。そんな和彦に、俊哉は核心を突くような質問をぶつけてきた。
『〈そちら〉ではずいぶん大事にされているようだが、お前は、元の生活に戻りたくないか? 佐伯家の次男坊として、気楽にふわふわと生活して、ときどき、佐伯家の人間としての義務を果たす生活だ。それなりに気に入っていただろう』
「ぼくは――……」
和彦が即答しなかったことが、俊哉にとっては何よりもの答えになっていたようだった。柔らかな声をいくぶん低め、まるで子供を窘めるような口調で言った。
『優しくしてくれて、餌をくれるなら、相手がヤクザでもいいか? 犬猫ならそれでもいいだろうが、お前は佐伯家の人間だ。髪一本、爪の一欠片でも他人に自由にさせるな。お前は、わたしの言うことにのみ従っていればいい――と、言いたいところだが、肝心のお前が長嶺守光のもとにいるなら、どうしようもない。今のところは』
『お前に言いたいことはいろいろあるが、今はやめておこう。ただ、これだけは言っておく。――お前をずっと自由にはさせていたが、お前を手放すつもりは、まったくない。わたしそっくりの、大事で可愛い息子だからな。この言葉がウソでないことは、お前自身、よくわかっているだろう?』
電話から聞こえてくる俊哉の言葉が恐ろしかった。必死に記憶の片隅に追いやってきた光景が生々しく蘇り、当時、自分が抱いた感情すらも、思い出してしまう。
唇を戦慄かせ、呼吸すらも止めてしまいそうになっていると、和彦の異変に気づいた鷹津が、強く頬を撫でてくる。それでは足りないと思ったのか、内奥を強く突き上げてきた。
和彦は我に返り、うろたえる。意識を、電話の向こうにいる俊哉に向ければいいのか、目の前の鷹津に向ければいいのか、混乱していた。
「今は、やめてくれ。父さんに――」
何をしているか悟られてしまう、と言いたかったが、鷹津は酷薄な笑みを浮かべた。
「安心しろ。お前の父親は全部知っている。お前が長嶺の男たちのオンナになっていることも、俺とも寝ていることも。直接会って話したが、さすが、切れ者大物官僚……いや、お前の父親だな。顔色一つ変えなかった」
和彦が、自分の現状を実家に知られたくなかったのは、家族に迷惑をかけたくないという気持ちは当然だが、何より、佐伯家――俊哉が、長嶺の男たちを敵として認識することを恐れていたからだ。何もかも知られたとき、自分の扱いについて無難な解決がなされることはありえないと、和彦はよくわかっている。
佐伯家と接触するのは自分一人で、万が一にも、長嶺組や総和会の存在は一切匂わせてはいけないと考えていたが、和彦の希望は楽観的であり、悠長だったのだろう。
思いがけない人物に、先手を打たれてしまった。
「……どうして、あんたがそんなことを……」
鷹津は一瞬苦しげに顔をしかめたあと、携帯電話をちらりと見遣った。
「先に、自分の父親との話を済ませろ」
和彦はのろのろと片手を伸ばし、携帯電話を切ろうとしたが、あっさり鷹津に取り上げられる。
「話せよ。もうすぐ、口が回らなくなるぞ。久しぶりだろう。父親と話すのは」
「ぼくは――」
『長嶺守光と聞いて、懐かしい気持ちになった。あの男と関わりを持つとは、なかなか因縁めいたものを感じたな。どれだけ捜そうが、見つからないはずだと感心した。総和会や長嶺組の庇護下にいてはな……。しかも、交渉事をするには、これ以上なく厄介な相手だ』
そう言う俊哉の声は、ひたすら柔らかだった。不始末という一言では到底収まらない状況にいる和彦に対して、怒りも苛立ちも感じている様子はない。物心ついた頃から、俊哉はこうなのだ。息子に関心がないからこそ寛容であり、それが過ぎて、冷淡である。
しかし、さきほど俊哉が言った『大事で可愛い息子』という表現もまた、本人にとっては偽らざる本心だろう。
俊哉にとって和彦とは、血が繋がっているという理由以外でも、〈特別〉な存在なのだ。
『お前の居場所がわかったから、すぐに奪い返すというわけにはいかない。そう、単純な話ではないからな。あの男――化け狐は、取引相手としては誠実で有能だが……、ふん、少々欲深い。さすがのわたしも、慎重にならざるをえない』
睡眠薬で鈍くなっている和彦の意識を、何かが一瞬、鋭く刺した。それがなんであるか考えようにも、強烈な眠気に押し流され、自分が何を気にしたのかすらもわからなくなる。そんな和彦に、俊哉は核心を突くような質問をぶつけてきた。
『〈そちら〉ではずいぶん大事にされているようだが、お前は、元の生活に戻りたくないか? 佐伯家の次男坊として、気楽にふわふわと生活して、ときどき、佐伯家の人間としての義務を果たす生活だ。それなりに気に入っていただろう』
「ぼくは――……」
和彦が即答しなかったことが、俊哉にとっては何よりもの答えになっていたようだった。柔らかな声をいくぶん低め、まるで子供を窘めるような口調で言った。
『優しくしてくれて、餌をくれるなら、相手がヤクザでもいいか? 犬猫ならそれでもいいだろうが、お前は佐伯家の人間だ。髪一本、爪の一欠片でも他人に自由にさせるな。お前は、わたしの言うことにのみ従っていればいい――と、言いたいところだが、肝心のお前が長嶺守光のもとにいるなら、どうしようもない。今のところは』
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