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第35話
(1)
しおりを挟む和彦の予想を上回って、事態は急速に動き始めた。
総和会出資によるクリニック経営の話を承諾した三日後には、午前中のうちに総和会本部へと連れて行かれ、藤倉の立ち会いのもと、膨大な数の書類にサインをさせられたのだ。
長嶺組出資のクリニックを任されることになったときも、同じように書類にサインはしたが、ここまで多くはなかった。
当然の義務とばかりに藤倉は、書類の一枚一枚について説明をしてくれたが、公的なものはほとんどなく、大半が、総和会内で回され、保管される書類だった。
自分を総和会に縛り付けておくための契約書だと、万年筆を握る手を機械的に動かしながら、自虐的に和彦は考える。自分が決断した結果だということは痛いほどわかっているのだ。例え、そうするしかなかったとはいえ。
強い力に身を委ねた先にあるものについて想像力を働かせてみるが、まるで靄がかかったように、何も思い浮かばない。安寧があるとは思えなかった。正体のはっきりしない何かが真っ黒な口を開けて待っているような、漠然とした不安だけは、ひしひしと感じる。当然、重圧も。
「――佐伯先生に、総和会の加入書を書いていただいたときのことが、昨日のように思い出されますよ」
和彦が記入し終えた書類を確認しながら、藤倉が感慨深げに言う。和彦は微苦笑を浮かべていた。そのときのことは、和彦自身、今も鮮明に覚えている。
「あのときは、藤倉さんにはご迷惑をおかけしました」
「いえいえ、ご迷惑だなんて。我々も少々強引に物事を進めすぎたと、反省したんですよ。なんといっても、佐伯先生はまだ、まったく堅気の方でしたから」
悪気はないのだろうが、今は違うと言外に言われたようなもので、和彦は複雑な表情となる。しかし藤倉はそんな変化に気づいた様子もなく、さらに言葉を続ける。
「その佐伯先生が、今では総和会会長の信頼を得て、出資を受けて事業を始めるまでになられたんですから、すごいことです。しかも、短期間のうちに」
藤倉も当然、和彦と守光がどんな関係にあるのか知っているだろう。そのうえで、嫌悪や侮蔑といった感情を微塵も表に出すことなく、当初の頃のように接してくるのだから、感心するしかなかった。総和会の人間の誰もが、和彦の前ではそうなのだ。
和彦としては救われる部分もあるが、一方で、腹の内を勘繰りたくなる。それは和彦が、自分の立場を卑下したくなる心理の裏返しともいえた。
「……本当にぼくでいいのかと、すごく不安ですが……」
本音を吐露すると、藤倉は芝居がかった満面の笑みを見せた。
「大丈夫ですよ、佐伯先生。総和会が全面的にバックアップしますから、なんの心配もいりません。もちろん、ご迷惑をかけることもありません。佐伯先生が仕事に集中できる環境をご用意いたします」
ウソではないのだろう。今のクリニックですら、長嶺組の協力があって、経営については素人の和彦がなんとかまわせているのだ。総和会の協力ともなると、さらに絶大なものとなるはずだ。
自分が感じる不安がどういう類のものなのか、わざわざ藤倉に説明する気にもなれず、和彦は、お願いしますととりあえず頭を下げておく。
今日済ませておく書類へのサインはこれで終わりだということで、和彦は手早く帰り支度を済ませて、藤倉に伴われて応接室を出る。外には、イスがあるにもかかわらず、護衛の人間二人が直立不動の姿勢で待っていた。本部にいる頃よりさらに鋭い空気を放っているのは、ここが和彦にとって、必ずしも安全な場所ではないことを物語っている。
車による襲撃犯の目星はついているのか、聞いてみたい気はするが、素直に教えてくれるとは思えない。クリニックの件を引き受けたこともあり、闇雲に情報を仕入れたところで、今の自分に処理しきれそうにない。
物事は単純なほうがいい――。和彦は、自分に言い聞かせるように心の中で呟く。
エレベーターホールまで来たところで、改めて藤倉に礼を言って頭を下げる。藤倉は大仰に手を振った。
「こちらこそ、佐伯先生にはお礼を言わなければなりません。せっかくの休日なのに、ご足労いただき、ありがとうございました。申し訳ないですが、クリニックの候補地を見てもらうため、また休日におつき合いいただくことになると思います。ご負担をかけることになりますが、よろしくお願いします」
また南郷が同行することになるのだろうかと、藤倉の言葉を受け、頭の片隅でちらりと考える。不快さが表情に出そうになったが、なんとか堪えた。
藤倉とそんなやり取りを交わしていると、一基のエレベーターの扉が開いた。和彦はその様子を視界の隅に捉えただけで、誰が降りてきたのかわざわざ確認はしなかったのだが、藤倉や、護衛の男たちは違った。
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