血と束縛と

北川とも

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第34話

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 南郷に言われると妙な言葉だと思ったが、顔には出さないでおく。
 和彦はさりげなく距離を取ろうとしたが、当然のように南郷はついてきて、駐車場の隅に置かれたベンチに並んで腰掛けることになる。二人きりなら、いくらでも素っ気ない態度が取れるが、今日はそうではない。南郷の部下たちの前で、南郷本人の面子を潰すマネはしたくなかった。
「夏バテじゃないのか。今ですら、忙しいと思っているかもしれないが、これからますます忙しくなるぞ、あんた。しっかり食って、体力をつけておかないと」
「……新しいクリニックのことを言っているのなら、ぼくはまだ引き受けると決めたわけじゃないので……」
 断れると思っているのかと言いたげに、南郷は薄笑いを浮かべた。一瞬ムキになりかけた和彦だが、ギリギリのところで堪える。
「総和会から大事にされる代わりに、思い通りにいかなくなることが、いくつか出てくるだろう。こうやって、休みの日に外に引っ張り出されるとか」
「それは、長嶺組でも似たような状況なので……」
「――大事な男と引き離されるなんてことも、あるかもな」
 和彦は、弾かれたように立ち上がり、南郷を睨みつける。誰のことを指しているのか、即座にわかったのだ。南郷は憎たらしいほど落ち着いていた。
「あんたと三田村さんがどれだけ熱い仲かってのは、俺もよく知ってる。オヤジさんも一応容認はしているようだが、それは、これまでの話だ。あんたは、長嶺の男たちだけじゃなく、総和会にとって大事な人になりつつある。あんたのために、総和会の人間が命を張るようになるんだ」
 背もたれに腕をかけ、南郷がじっと見上げてくる。立っている和彦のほうが目線の位置は高いのに、向けられる眼差しの迫力に、見えない手で頭を押さえつけられそうだった。
「そんなあんたと、長嶺組傘下の城東会若頭補佐という肩書きを持っているとはいえ一介の組員とじゃ、釣り合いが取れない――と考える奴も出てくるだろう。総和会ってのは、とにかくプライドの高い連中が揃っているんだ。総和会が一番、その中で、うちの組が一番、とな。オヤジさんは、あくまで総和会の人だ。そんな人がオンナにしているあんたを、長嶺組の組員ごときが好きにしているんだ、おもしろくないかもな」
「だったらあなたは、『ごとき』じゃないんですか」
 南郷は、歯を剥き出すようにして笑った。
「あまりカッカとすると、倒れるぞ、先生。気分が悪いんだろ」
「……あなたが、人の神経を逆撫でするからでしょう」
「可愛い男のためなら、いくらでも感情的になるか?」
 これ以上南郷と話していても、一方的に翻弄されるだけだと自分に言い聞かせ、和彦は踵を返す。歩き出してすぐ、南郷のこんな言葉が聞こえてきた。
「あんたと三田村さんが、アパートの一室にこもりきっているという報告を受けて、あんたたちの関係に難癖をつけるなら、こんな感じだろうかと、考えたんだ。これぐらいでムキになっていたら、何も守れないぞ、先生」
 危うく出かかった、余計なお世話だという一言を、和彦はぐっと呑み込む。
 南郷とのやり取りは、胸に抱えていた漠然とした不安を見事に抉り出していた。総和会や守光と関係を深めていく中で、三田村との関係はこのままでいられるのかと、心のどこかで思っていたのだ。
 あの部屋で二人きりで過ごす時間が心地よかったからこそ、その不安を直視せざるをえなかった。失いたくないからこそ、守らなければならない。
 誰から――。
 その自問に対する答えを、結局和彦は出さなかった。


 南郷から、和彦が夏バテ気味だと進言があったのか、その日の夕食には、和彦の分だけ料理の品数が多かった。しかも、精がつくと言われる食材を使ったものばかり。
 あの男なりに、和彦のことに気をつかっているというのは本当なのだろう。だが、あまりに無遠慮で、無神経すぎる。わざと和彦の反感を煽り、その反応を楽しんでいるのだ。
 意識しないまま箸を持つ手を止めていたらしく、正面の席につく守光に声をかけられた。
「何か嫌いなものでも出ているかね」
 ハッとした和彦は慌てて首を横に振る。
「いえ、大丈夫です。……食事にずいぶん気をつかってもらっているなと思ったものですから」
「あんたには何より体を大事にしてもらわんといけないからな。食べたいものがあれば、遠慮なく吾川に言うといい」
「体は平気です。今日はたまたま車に酔っただけなので」
 ここで新しいクリニックについて守光から触れるかと内心身構えたが、意外なほどあっさりと受け流された。
 守光が目を細めるようにして、じっと和彦を見つめる。
「わしらが連れ回したせいで、この何日かで、すっかり日に焼けたな、先生」
 和彦は思わず自分の腕を眺める。言われてみればという程度だが、例年に比べれば、確かに少し日焼けした。
「いつになく夏を堪能した気がします。海でも泳げましたし」
「千尋も、泳げはしなかったが、ずいぶん楽しかったようだ。あんたと一緒だったというのが、何よりだったんだろう」
「かなりはしゃいでいて、海で水遊びをしているときは、ヒヤヒヤしました」
 楽しげに声を上げて守光が笑う。
 こうして向き合って食事をしていると、不思議な感覚に襲われる。ほんの数日前、和彦は長嶺の男たちと交わり、最後に精を注ぎ込んできたのが守光だった。淫靡で背徳的な行為だったはずなのに、一方で厳粛な雰囲気が漂っていたのは、守光の存在があったからだ。
 総和会の頂点に立つ男が加わったことで、あの行為は儀式として成り立った。和彦と長嶺の男たちの関係をより深く、濃密に結びつけた。
 目の前の人物との関係が、また変わってしまったのだと、唐突に認識させられる。それは、羞恥であったり、戸惑いを生み出し、これまでの守光に対する畏怖に加えて、さまざまな感情で和彦の心を揺さぶる。
 守光と目が合い、ドキリとした和彦は咄嗟にこう切り出した。
「――そういえば、古いご友人には会われたのですか?」
 一瞬、守光の目に鋭い光が宿ったような気がした。しかし次の瞬間には、柔和な眼差しとなって頷く。
「お互い、歳を取って、若い頃に比べて立場もずいぶん変わったが、会えばやはり、昔と同じだよ。そうそう人間、中身は変わらんということか」
「ぼくにはまだまだわからない感覚ですね」
「今からだよ。まだ三十歳そこそこなら、人のつき合いは劇的に広がるし、深まる。あんたにとって信用できる人間を見つけておくことだ。ただし、信用と信頼は、別物だ。これを見誤ると、手痛い目に遭わないとも限らない」
「……それは、経験からですか?」
「経験からでしか、わしはものを語れんよ」
 長嶺組の組長を経て、さらに大きな組織である総和会を動かしている人物の発言は、重みがあった。和彦などがうかがい知ることができない経験があっただろう。守光の経験を聞きたがる者はいくらでもいるだろうが、和彦は違った。化け狐が身を潜める一層深い闇を覗き見ることが、怖いのだ。
 もうすぐ、その深い闇に取り込まれてしまうというのに。

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