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第33話
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自分の頬を撫でて、そう言って南郷は笑った。機嫌を損ねた様子はないが、物騒な男たちの表情ほど信用できないものはない。
「……すみません。殴るつもりは――」
「謝らなくていい。大事なオンナの機嫌を損ねた俺の失態だ」
部屋を出て行こうとした南郷が、視線を伏せ気味にして立ち尽くす中嶋に声をかけた。
「中嶋、先生の世話を頼んだぞ」
中嶋は短く応じて頭を下げる。南郷は最後に和彦を一瞥したが、このときどういう意味か、唇の端に笑みらしきものを浮かべていた。
部屋に中嶋と二人きりとなると、和彦はズルズルとその場に座り込む。慌てて中嶋が駆け寄ってきた。
「先生、大丈夫ですかっ?」
傍らに膝をついた中嶋に顔を覗き込まれそうになり、咄嗟に顔を背けた和彦は唇を拭う。
中嶋に、南郷との口づけを見られたことが、自分でも意外なほどショックだった。
「先生……」
遠慮がちに中嶋の手が肩にかかり、そっとさすられる。和彦はぎこちなく息を吐き出すと、おずおずと中嶋を見た。
「さっきのこと……、誰にも言わないでくれ。特に、三田村には」
中嶋は一瞬だけ痛ましげな顔となる。
「言いませんよ。――俺は何も見ませんでした」
小さな声で礼を言った和彦は、そのままうなだれる。さきほどの出来事について、まだ自分の中で処理しきれないのだ。中嶋は、和彦の髪を手櫛で整えながら、こう提案してきた。
「食事の準備がもうすぐできるそうですが、その前に風呂に入りましょう。さっぱりしますよ」
今の自分に一番必要なのはそれだと、これ以上なく納得した和彦はコクリと頷いた。
たった一人の無礼な男を除いて、和彦に対する配慮が行き渡っていたようで、宿を発つ時間になるまで、部屋には誰も入ってこなかった。そのため、長嶺の男たちが挨拶回りからいつ戻ってきたのかも、知らなかった。
入浴を済ませてから食事をとったあと、窓辺に置かれた籐の寝椅子に身を預け、漫然と海を眺めていくうちに、いくらか和彦の精神状態も落ち着きを取り戻した。
ただ、肉体的な疲労はまだ残っている。とにかく、動きたくなかった。
「……ぼくだけ置いていってくれてもいい」
寝椅子に寝そべったまま和彦が言うと、スーツ姿の千尋が苦笑いを浮かべる。
「そんなこと、オヤジたちが許すと思う?」
「思わないけど、言ってみただけだ。……動きたくない。体がだるいんだ」
「ごめん。俺たちのせいだよね」
「そうだ。だから、謝るぐらいなら、ぼくを置いていってくれ。あとは勝手にする」
「――珍しいな。先生が千尋相手にわがままか」
二人の会話に割って入ってきたバリトンの響きに、さすがに和彦もわずかに頭を上げる。
千尋と同じくスーツ姿の賢吾が薄い笑みを向けてきたが、つい視線を逸らす。
「わがままじゃない。正当な主張だ」
「まあ確かに、今回の旅行は先生に負担ばかりかけたな。できることなら望みも叶えてやりたいが……、我慢して車に乗ってくれ。悪いようにはしない」
傍らに立った賢吾が片手を差し出してきたので、渋々その手を掴んで起こしてもらう。
組員によって荷物はまとめられ、和彦自身はジャケットを羽織るだけの身支度で部屋を出た。
和彦に合わせてゆっくりとした歩調で歩きながら、千尋がちらちらとこちらを見る。最初は気にしていなかった和彦だが、熱っぽい眼差しを向けられるに至り、我慢できなくなった。エレベーターを降りたところで、小声で問い詰める。
「お前……、さっきからなんだ」
「えっ、いや……、さっきの駄々こねてる先生、可愛かったなって」
和彦は、千尋が履いている上等な革靴を遠慮なく踏みつける。痛がりながらも、どこか楽しげな千尋は、さりげなく和彦の耳元に顔を寄せてきた。
「昨夜、すごかったね」
「お前、こんなところでっ――」
「俺たちと先生で、盃の契りを交わしたんだと思ったら、嬉しくてさ」
「……ぼくには、よくわからない」
先を歩く賢吾が肩越しにこちらを振り返る。
「先生は、俺たちの特別な人ってこと。いままでもそうだったけどさ、昨夜のあれは――組織として公言したことになる。先生は、俺たちの盃を受け入れた。組織としてだけじゃなく、長嶺の家の一員だってこと」
「あれで?」
「先生に血を流させるのは偲びない、というのが、俺たちの共通認識だったんだ。だから、汗と唾液と精え――」
もう一度千尋の革靴を踏みつけて、和彦は必死に睨みつける。きょとんとした顔をしたあと、千尋は実に締まりのない表情となった。
「上品だなー、先生」
「違う。ささやかだが、恥じらいがあるだけだ」
「……すみません。殴るつもりは――」
「謝らなくていい。大事なオンナの機嫌を損ねた俺の失態だ」
部屋を出て行こうとした南郷が、視線を伏せ気味にして立ち尽くす中嶋に声をかけた。
「中嶋、先生の世話を頼んだぞ」
中嶋は短く応じて頭を下げる。南郷は最後に和彦を一瞥したが、このときどういう意味か、唇の端に笑みらしきものを浮かべていた。
部屋に中嶋と二人きりとなると、和彦はズルズルとその場に座り込む。慌てて中嶋が駆け寄ってきた。
「先生、大丈夫ですかっ?」
傍らに膝をついた中嶋に顔を覗き込まれそうになり、咄嗟に顔を背けた和彦は唇を拭う。
中嶋に、南郷との口づけを見られたことが、自分でも意外なほどショックだった。
「先生……」
遠慮がちに中嶋の手が肩にかかり、そっとさすられる。和彦はぎこちなく息を吐き出すと、おずおずと中嶋を見た。
「さっきのこと……、誰にも言わないでくれ。特に、三田村には」
中嶋は一瞬だけ痛ましげな顔となる。
「言いませんよ。――俺は何も見ませんでした」
小さな声で礼を言った和彦は、そのままうなだれる。さきほどの出来事について、まだ自分の中で処理しきれないのだ。中嶋は、和彦の髪を手櫛で整えながら、こう提案してきた。
「食事の準備がもうすぐできるそうですが、その前に風呂に入りましょう。さっぱりしますよ」
今の自分に一番必要なのはそれだと、これ以上なく納得した和彦はコクリと頷いた。
たった一人の無礼な男を除いて、和彦に対する配慮が行き渡っていたようで、宿を発つ時間になるまで、部屋には誰も入ってこなかった。そのため、長嶺の男たちが挨拶回りからいつ戻ってきたのかも、知らなかった。
入浴を済ませてから食事をとったあと、窓辺に置かれた籐の寝椅子に身を預け、漫然と海を眺めていくうちに、いくらか和彦の精神状態も落ち着きを取り戻した。
ただ、肉体的な疲労はまだ残っている。とにかく、動きたくなかった。
「……ぼくだけ置いていってくれてもいい」
寝椅子に寝そべったまま和彦が言うと、スーツ姿の千尋が苦笑いを浮かべる。
「そんなこと、オヤジたちが許すと思う?」
「思わないけど、言ってみただけだ。……動きたくない。体がだるいんだ」
「ごめん。俺たちのせいだよね」
「そうだ。だから、謝るぐらいなら、ぼくを置いていってくれ。あとは勝手にする」
「――珍しいな。先生が千尋相手にわがままか」
二人の会話に割って入ってきたバリトンの響きに、さすがに和彦もわずかに頭を上げる。
千尋と同じくスーツ姿の賢吾が薄い笑みを向けてきたが、つい視線を逸らす。
「わがままじゃない。正当な主張だ」
「まあ確かに、今回の旅行は先生に負担ばかりかけたな。できることなら望みも叶えてやりたいが……、我慢して車に乗ってくれ。悪いようにはしない」
傍らに立った賢吾が片手を差し出してきたので、渋々その手を掴んで起こしてもらう。
組員によって荷物はまとめられ、和彦自身はジャケットを羽織るだけの身支度で部屋を出た。
和彦に合わせてゆっくりとした歩調で歩きながら、千尋がちらちらとこちらを見る。最初は気にしていなかった和彦だが、熱っぽい眼差しを向けられるに至り、我慢できなくなった。エレベーターを降りたところで、小声で問い詰める。
「お前……、さっきからなんだ」
「えっ、いや……、さっきの駄々こねてる先生、可愛かったなって」
和彦は、千尋が履いている上等な革靴を遠慮なく踏みつける。痛がりながらも、どこか楽しげな千尋は、さりげなく和彦の耳元に顔を寄せてきた。
「昨夜、すごかったね」
「お前、こんなところでっ――」
「俺たちと先生で、盃の契りを交わしたんだと思ったら、嬉しくてさ」
「……ぼくには、よくわからない」
先を歩く賢吾が肩越しにこちらを振り返る。
「先生は、俺たちの特別な人ってこと。いままでもそうだったけどさ、昨夜のあれは――組織として公言したことになる。先生は、俺たちの盃を受け入れた。組織としてだけじゃなく、長嶺の家の一員だってこと」
「あれで?」
「先生に血を流させるのは偲びない、というのが、俺たちの共通認識だったんだ。だから、汗と唾液と精え――」
もう一度千尋の革靴を踏みつけて、和彦は必死に睨みつける。きょとんとした顔をしたあと、千尋は実に締まりのない表情となった。
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