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第33話
(12)
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そう答えたのは三田村だ。さきほど見せた笑顔はすでになく、和彦を護衛するための緊張感で引き締まっていた。中嶋はどうするのかと、ちらりと視線を向ける。
「君は?」
「先生の遊び相手を務めたので、今日のところはお役御免ではありますが、長嶺組長にご挨拶をしておきたいので、店までご一緒させてもらいます」
こういうのをアピール上手というのだなと、和彦は素直に感心した。
店まで近いということなので、歩いて行くことにする。暑いうえに疲れているのだから車で、と三田村には言われたが、初めて訪れた場所を、少しでもいいから自分の足で歩いてみたいという好奇心には勝てない。
「まあ、疲れついでだ」
話がまとまり、さっそく三人で宿を出る。このとき三田村は鋭い視線を周囲に向け、中嶋ですら同じ行動を取る。
自分のわがままのせいで申し訳ないなと思っていると、三田村と目が合う。次の瞬間、ふっと眼差しが和らいだ。三田村の言いたいことは、それだけで伝わってきた。
土産物屋が並ぶ短い通りを抜け、道路沿いに十分ほど歩いたところで、三田村が前方を指さす。ハンカチで額の汗を拭いながら和彦が見たのは、店らしき建物と、見覚えのあるいかつい車の一団が駐車場に停まっている光景だった。
店の前には組員が立っており、和彦たちに気づいて一礼する。三田村が声をかけ、少し前に賢吾たちが到着したということなので、時間としてはちょうどよかったようだ。
貸切となっている店の奥の座敷へと通されると、上座についた賢吾が唇だけの薄い笑みを向けてきた。さすがに寛いだ様子でジャケットを脱いでおり、ネクタイも緩めている。どうやら法要は問題なく終了したようだ。
「さあ先生、どうぞ」
そう言って組員に、上座に近い席を案内されそうになる。
正直和彦は、席次がはっきりわかる場は苦手だ。よほど形式張った行事であれば指示に従うところだが、身内だけの食事会であれば多少の意見を通せる。賢吾や千尋の側に座るのは遠慮して、一番下座についた。
中嶋はさっそく賢吾の側に行き、何事か言って頭を下げている。堂に入った所作は、いかにも外見は普通の青年のように見えても、筋者のそれだ。賢吾は鷹揚な態度で応じ、二言、三言と言葉を交わし、なぜか中嶋とともにこちらを見た。きっとロクでもないことを話しているのだろうなと思った和彦は、露骨に顔を背けた。
中嶋は賢吾だけではなく、しっかり千尋にも挨拶をしてから、席に加わった三田村とも短く言葉を交わしたあと、和彦のもとにやってきた。
「――今日もいろいろ世話になった。ありがとう」
和彦が礼を述べると、中嶋は緩く首を横に振って答えた。
「礼を言うのはこちらですよ。長嶺組の方々にしっかり顔と名前を覚えてもらえたのは、先生のおかげです」
「そう言ってもらえるんなら、君が出世したときには恩を倍返ししてもらおうかな」
ニヤリと笑った中嶋が、頭を下げて座敷を出て行く。そこにすかさずグラスを手渡され、ビールが注がれる。
あともう一仕事だと思い、和彦は座布団の上で姿勢を正した。
眠気が限界だった和彦は部屋に戻ると、さっさと浴衣に着替え、早めに敷いてもらった布団に横になった。
賢吾と千尋は別の部屋で明日の打ち合わせをしているらしいが、帰りを待てるほどの気力も体力も、和彦には残っていない。
肌掛け布団にしっかりと包まり、心地よさに吐息を洩らした数瞬のうちに、波にさらわれるように意識がゆっくりと遠くへと押しやられる。
このまま朝まで熟睡――とはならなかった。
髪を撫でる感触に、一度は遠のきかけた意識が、今度は引き戻される。抗うようにきつく目を閉じたが、まるで己の存在をアピールするように髪を掻き乱され、抗議の唸り声を洩らす。耳に届いたのは、魅力的なバリトンと、若々しい声による微かな笑い声だった。
「――そろそろ諦めて、目を開けてくれないか、先生」
「布団を剥ぎ取っちゃおうかなー」
もう一度唸り声を洩らして、仕方なく和彦は薄く目を開く。
「ぼくは疲れてるんだ。今夜は、話相手は無理だ……」
「別に話さなくても、相手はできるだろ」
寝ぼけた頭でも、賢吾が言おうとしていることは理解できる。悲しいことに。
和彦はもぞりと身じろぎ、肌掛け布団の下から片手を伸ばすと、賢吾の膝の辺りを軽く殴りつけた。その隙に、千尋が同じ布団に潜り込んできて、抱きついてくる。
「くっつくなっ。日焼けしたせいで、肌がピリピリして痛いんだ」
中嶋が持参した日焼け止めを塗ってはいたのだが、この時期の直射日光を甘く見ていたようだ。中嶋も今頃、日焼けが気になって仕方ない状態かもしれない。
「君は?」
「先生の遊び相手を務めたので、今日のところはお役御免ではありますが、長嶺組長にご挨拶をしておきたいので、店までご一緒させてもらいます」
こういうのをアピール上手というのだなと、和彦は素直に感心した。
店まで近いということなので、歩いて行くことにする。暑いうえに疲れているのだから車で、と三田村には言われたが、初めて訪れた場所を、少しでもいいから自分の足で歩いてみたいという好奇心には勝てない。
「まあ、疲れついでだ」
話がまとまり、さっそく三人で宿を出る。このとき三田村は鋭い視線を周囲に向け、中嶋ですら同じ行動を取る。
自分のわがままのせいで申し訳ないなと思っていると、三田村と目が合う。次の瞬間、ふっと眼差しが和らいだ。三田村の言いたいことは、それだけで伝わってきた。
土産物屋が並ぶ短い通りを抜け、道路沿いに十分ほど歩いたところで、三田村が前方を指さす。ハンカチで額の汗を拭いながら和彦が見たのは、店らしき建物と、見覚えのあるいかつい車の一団が駐車場に停まっている光景だった。
店の前には組員が立っており、和彦たちに気づいて一礼する。三田村が声をかけ、少し前に賢吾たちが到着したということなので、時間としてはちょうどよかったようだ。
貸切となっている店の奥の座敷へと通されると、上座についた賢吾が唇だけの薄い笑みを向けてきた。さすがに寛いだ様子でジャケットを脱いでおり、ネクタイも緩めている。どうやら法要は問題なく終了したようだ。
「さあ先生、どうぞ」
そう言って組員に、上座に近い席を案内されそうになる。
正直和彦は、席次がはっきりわかる場は苦手だ。よほど形式張った行事であれば指示に従うところだが、身内だけの食事会であれば多少の意見を通せる。賢吾や千尋の側に座るのは遠慮して、一番下座についた。
中嶋はさっそく賢吾の側に行き、何事か言って頭を下げている。堂に入った所作は、いかにも外見は普通の青年のように見えても、筋者のそれだ。賢吾は鷹揚な態度で応じ、二言、三言と言葉を交わし、なぜか中嶋とともにこちらを見た。きっとロクでもないことを話しているのだろうなと思った和彦は、露骨に顔を背けた。
中嶋は賢吾だけではなく、しっかり千尋にも挨拶をしてから、席に加わった三田村とも短く言葉を交わしたあと、和彦のもとにやってきた。
「――今日もいろいろ世話になった。ありがとう」
和彦が礼を述べると、中嶋は緩く首を横に振って答えた。
「礼を言うのはこちらですよ。長嶺組の方々にしっかり顔と名前を覚えてもらえたのは、先生のおかげです」
「そう言ってもらえるんなら、君が出世したときには恩を倍返ししてもらおうかな」
ニヤリと笑った中嶋が、頭を下げて座敷を出て行く。そこにすかさずグラスを手渡され、ビールが注がれる。
あともう一仕事だと思い、和彦は座布団の上で姿勢を正した。
眠気が限界だった和彦は部屋に戻ると、さっさと浴衣に着替え、早めに敷いてもらった布団に横になった。
賢吾と千尋は別の部屋で明日の打ち合わせをしているらしいが、帰りを待てるほどの気力も体力も、和彦には残っていない。
肌掛け布団にしっかりと包まり、心地よさに吐息を洩らした数瞬のうちに、波にさらわれるように意識がゆっくりと遠くへと押しやられる。
このまま朝まで熟睡――とはならなかった。
髪を撫でる感触に、一度は遠のきかけた意識が、今度は引き戻される。抗うようにきつく目を閉じたが、まるで己の存在をアピールするように髪を掻き乱され、抗議の唸り声を洩らす。耳に届いたのは、魅力的なバリトンと、若々しい声による微かな笑い声だった。
「――そろそろ諦めて、目を開けてくれないか、先生」
「布団を剥ぎ取っちゃおうかなー」
もう一度唸り声を洩らして、仕方なく和彦は薄く目を開く。
「ぼくは疲れてるんだ。今夜は、話相手は無理だ……」
「別に話さなくても、相手はできるだろ」
寝ぼけた頭でも、賢吾が言おうとしていることは理解できる。悲しいことに。
和彦はもぞりと身じろぎ、肌掛け布団の下から片手を伸ばすと、賢吾の膝の辺りを軽く殴りつけた。その隙に、千尋が同じ布団に潜り込んできて、抱きついてくる。
「くっつくなっ。日焼けしたせいで、肌がピリピリして痛いんだ」
中嶋が持参した日焼け止めを塗ってはいたのだが、この時期の直射日光を甘く見ていたようだ。中嶋も今頃、日焼けが気になって仕方ない状態かもしれない。
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