血と束縛と

北川とも

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第33話

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 いつものように距離を縮めてくる千尋をさりげなく牽制しながら、建物に入る。目立つ千尋の隣にいて、さらに目立つマネはしたくない。千尋は不満げに眉をひそめはしたが、さすがに大声で抗議するようなことはしなかった。
 にぎわうロビーを横目にチェックインを済ませ、千尋と並んで歩きながら和彦は、こっそりと洩らす。
「お前たちと泊まりで出かけると、犯さなくていい犯罪を犯すことになって、複雑な気分になる」
 フロントで宿泊者カードを記入するとき、千尋は平然と本名を書くのだが、和彦だけは偽名を使い、住所も、住んだこともない地名を書いている。
 千尋は肩を竦めて笑った。
「ごめんね。俺たちの場合、どんなことで警察に引っ張られるかわからないから。だけど先生の場合、素性を知られることのほうが怖い。ヤクザじゃないんだから」
「……わかってる。言ってみただけだ」
 今夜宿泊する部屋は、いかに護衛しやすく、何かあったときに避難しやすいかに重きが置かれたらしく、非常階段の近くだった。部屋自体は広くて手入れの行き届いた和室だが、和彦が少しがっかりしたのは、海がまったく見えないことだった。
 窓を開け、車が出入りしている駐車場を見下ろし、軽くため息をつく。
「――見えないけど、海はすぐそこだよ」
 笑いを含んだ声で千尋に言われ、和彦は慌てて窓を閉める。一拍置いてから、澄まし顔を取り繕って振り返った。
「知ってる」
「今日はこの部屋で我慢してよ。うちの組だけじゃなく、他の組や、総和会の人間たちもけっこう泊まっているから、とにかく安全第一で部屋を取ったから」
 千尋の口ぶりはまるで、子供の機嫌をうかがっている大人のようだった。普段、千尋を諭すような物言いになってしまう和彦としては、妙な気持ちだ。さまざまな人間に囲まれ、経験を積んでいくうちに、必然的に千尋も成長していくのだと、当たり前のことを思い知らされる。
「別に不満なわけじゃない。海が見えるものだと、ぼくが勝手に思い込んでいただけだから」
 もごもごと和彦が応じていると、荷物を運び込んだ組員たちと入れ違うように、賢吾が部屋にやってくる。和彦たちよりどれほど先に到着していたのか、すでにダークスーツを着ていた。
 折にふれ、賢吾のダークスーツ姿は目にしているが、そのたびに和彦は思うのだ。黒がよく似合う男だと。
 目が合った賢吾が、意味ありげな笑みを浮かべる。
「どうした先生。俺に見惚れているのか」
「……恥ずかしげもなく、よくそんなことが言えるな」
「照れなくてもいいだろ」
 ムキになって反論しようとしたが、組員にお茶を勧められ、結局口ごもる。こんなことで言い合ったところで、みっともないだけだと気づいた。
 席につくと、向かいに賢吾が座る。一方の千尋は、ダークスーツ一揃いを抱えて部屋を出て行く。その姿を見送り、和彦は呟いた。
「ここで着替えればいいのに……」
「先生に背中を見られたくねーんだろ」
 なんのことを言っているのか、すぐに理解した和彦は、座卓に身を乗り出すようにして賢吾に尋ねた。
「あんたは当然知ってるんだろ。千尋がどんな刺青を入れているのか」
「気になるか?」
「それは、まあ――」
 途端に賢吾が大仰に片方の眉を動かし、こんなことを言った。
「先生は刺青に弱いからな。いや、刺青を入れた男に弱いのか」
「誰のせいだっ」
「その口ぶりだと、俺のせいか?」
 もういいと、和彦は顔を背ける。賢吾はくっくと声を洩らして笑っていたが、それもわずかな間で、さっそく和彦の機嫌を取り始めた。
「俺たちが法要で出払っている間、先生は好きに過ごせばいい。この部屋から一歩も出ずにおとなしくしていろなんて無体は言わねーよ」
 身軽に動けることは最初から期待していなかっただけに、賢吾の提案は予想外だった。和彦は目を丸くしてから、そっと正面に向き直る。
「……本当に?」
「本当だ。ただし、護衛をつけてな。俺もこんなところで野暮は言いたくないが、どんな連中が鼻をひくつかせてうろついているかわからないからな。総和会が特に、先生の安全に気をつかっている」
「つまり――」
「護衛は、うちの組と総和会から一人ずつつく」
 それを聞いた和彦は思いきり顔をしかめる。
「なんだかもう、部屋を出る気すら失せたんだが……」
「ほお。〈前回〉はたっぷり楽しんだと聞いたぞ。――同じ面子で」
 もったいぶった賢吾の言い回しを、頭の中で繰り返す。そんな和彦をニヤニヤしながら眺めて気が済んだのか、賢吾は組員に目で合図した。すぐに組員が部屋を出て行き、一分もしないうちに襖の向こうで人の気配がした。

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