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第33話
(8)
しおりを挟む海だ、と和彦は心の中で呟く。
ウィンドーに顔を寄せ、ようやく視界に現れた景色にじっと見入る。スモークが貼られているため、くっきりと色彩鮮やかというわけにもいかず、それを不満に感じた和彦は誰にともなく問いかけた。
「……窓、開けていいか?」
数秒の沈黙のあと、助手席に座る組員が答えた。
「少しだけでしたら」
いかつい車が連なって走行しているのに、物騒なことを考える人間はそうそういないだろうと思いながら、和彦はありがたくウィンドーを少しだけ開ける。
冷房がよく効いた車内に、ムッとするような熱気が吹き込んでくるが、それでも和彦にとっては心地いい。
「潮の匂いだ……」
そう呟いたのは、和彦の隣に座っている千尋だ。車での長時間の移動は、気心が知れた相手と同乗したいという密かな和彦の希望は、和彦と同乗したいという千尋のわがままによって叶えられた。前列に座るのは長嶺組の組員だ。
「海に来たって感じだよなー。あー、みんな楽しそう」
砂浜には海水浴を楽しむ人たちの姿があり、千尋の言葉通り、確かに楽しそうだ。
「先生、ジムのプールではよく泳いでいたみたいだけど、海に泳ぎに行ったりしなかったの?」
「海ではあまり泳いだことがないな。医者になってからやっと、海外に遊びに行ったときに――」
無防備に思い出話をしようとした和彦だが、ここでハッとする。これは千尋にしてはいけない類の話だと気づいたからだ。
和彦は一時期、外傷外科医として救命救急の現場にいたことがある。和彦が一番、肉体的にも精神的にも疲れ果てていた時期でもあり、この仕事に向いていないと、嫌というほど痛感もしていた。
そのため転科を考え始めた頃、ある男とつき合っていたのだ。同年齢ではあったが、仕事で苦悩し、忙殺されかかっていた和彦とは違い、親の残した資産で優雅に遊び暮らしている男だった。
生まれ育ちがいいという点では、和彦と共通したものを持っていたが、話を聞く限り、家庭環境は雲泥の差があった。それでも不思議と気は合い、遊び相手としては申し分がなかった。その男の道楽によく連れ回されたが、エスコートも完璧だったため不満はなかった。
海外のリゾート地に一緒に出かけたときは、何も考えずに海ではしゃぎ、夜は肉欲のままに体を重ねて貪り合い、思う存分享楽に耽った。命の洗濯とはこういうことを言うのかと、身をもって実感したのだ。
そもそもあの男とどうして別れたのだろうかと、ぼんやりと思い出そうとしていた和彦だが、強い視線を感じて隣を見る。千尋が怖い顔をして問いかけてきた。
「――今、誰のこと考えてた?」
本当に勘が鋭いなと、和彦は苦笑を洩らす。
「前に、海に一緒に行った人間のこと」
「誰?」
「お前に言ってもわからないよ」
「でも知りたい」
「言いたくない。面倒だし」
途端に千尋が唇を尖らせたので、和彦はその唇を指先で軽く撫でる。
「欲張りだな。今のぼくを好き勝手にできるくせに、過去までどうにかしたいのか」
「……今の台詞、いかにも悪いオンナっぽい――」
千尋の額を小突いてから、ため息をついて再び外の景色へと目を向ける。千尋もすぐに気を取り直したのか、明るい口調で言った。
「俺たちが泊まる宿、もうすぐだよ」
千尋の言葉通り、五分も走らないうちに、車はある建物の駐車場へと入る。
黒のスーツで身を固めた男たちの誘導で、空いたスペースに車が停まると、素早く助手席から組員が降り、後部座席のドアが開けられる。ちらりとこちらを見た千尋が軽く頷いたので、促されるまま和彦は車を降りた。
宿は、観光地のホテルといった趣きで、守光が選ぶ宿の好みをなんとなく把握してしまった和彦としては、少し意外な気がした。総和会の関係者ばかりが宿泊するわけではないらしく、広い駐車場には、これから海に出向くのか、家族連れの姿もある。
「――法要で、いかにもな場所にひっそりと泊まるより、こういうところに堂々と泊まったほうが、けっこう警護も楽らしいよ。周りにいるのはのほほんとした堅気ばかりだから、何か狙ってる殺気立った輩は、目立つ」
さらりと物騒なことを言う千尋だが、車から降りた姿は、『のほほん』とまではいかないが、立派な堅気に見えた。足の長さを際立たせる細身のパンツに、Tシャツを着込み、その上からラフにジャケットを羽織っただけの姿ながら、上等な外見を持つ青年はそれでも十分人目を惹く。
本当に若いなと、堂々と陽射しの下に立つ千尋を眺めながら、和彦は心の中で感嘆する。普段から千尋との年齢差は意識しているのだが、何げないことで妙に実感するのだ。
こちらを見た千尋が眩しげに目を細める。
「先生、暑いから早く中に入ろう」
「ああ」
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