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第32話
(25)
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賢吾の唇がこめかみから耳へと移動し、熱い吐息を注ぎ込まれて背筋が痺れた。さきほど見た御堂と綾瀬の濃厚な行為の興奮が、まだ体に残っているのだ。
「……ぼくもずいぶん変わった。前に、ぼくが侮辱されたとき、あんたが言ったんだ。オンナ呼ばわりされるたびに、首に鎖をつけられて、地べたに頭を押しつけられている気がするか、と。そのときは、正直そう感じていた。だけど今は、とりあえずどう侮辱されたとしても、顔は上げていられる。傲然とまではいかないが」
「俺を含めて、先生に骨抜きになった男たちが、先生を特別なオンナにしちまったな。――そのうち、怖いぐらいの凄みを帯びたオンナになるかもな」
耳元で賢吾が低く笑い声を洩らし、危うく官能を刺激されそうになった和彦は、今度こそ身を引く。
「なるわけないだろっ。人をなんだと思ってるんだ」
「語っていいのか?」
澄ました顔で賢吾に問われ、一瞬怯んだ和彦はぼそりと答えた。
「――……聞きたくない」
疲れた、とも洩らすと、賢吾に肩を抱き寄せられる。和彦は素直に身を預けて目を閉じた。
パソコンの電源を落とした和彦は、ぐったりとしてイスの背もたれに体を預ける。今日は朝から晩までみっちりと予約が入っており、満足に休憩も取れないほど忙しかった。陽射しの強い季節となり、肌のトラブルで駆け込んでくる女性が多いのだ。
クリニックが繁盛するのは結構だが、これが連日続くとさすがに体に堪えそうだと、ようやく重い腰を上げた和彦は、緩慢な動作で白衣を脱ぐ。
カルテの整理をしている間に、スタッフたちは全員帰ってしまい、クリニック内は静まり返っていた。この雰囲気は嫌いではなく、むしろ、ほっとできる。特に、総和会本部に滞在している今は。
今晩は残業になるとあらかじめ伝えてあったため、護衛の人間たちは外でじっと待機しているしかない。人を待たせることに良心の呵責を覚えるほうなのだが、ささやかな開放感が勝っていた。
慎重に腕を回して肩の強張りを解すと、最後の仕事として、戸締りや機器の電源を確認して歩く。スタッフたちがしっかりしているため問題はなく、今日の和彦の仕事はこれですべて終わりだ。
帰り仕度をしていると、前触れもなく非常階段に通じるドアがノックされた。弾かれたように駆け出した和彦は、誰何することなく鍵を解き、ドアを開ける。
闇に紛れるようにして立っていたのは、鷹津だった。オールバックの髪型と不精ひげを生やしている、ある意味、いかにも鷹津らしい姿に、和彦は胸が熱くなるのを感じた。
和彦を押し退けるようにして強引に中に入った鷹津は、素早くドアを閉め、鍵をかけた。
「――クリニックの電話は留守電になっていたが、ブラインドの隙間から電気がついているのが見えたから、寄ってみた」
こちらが話しかけるより先に、鷹津が口を開く。微かに震えを帯びた息を吐き出してから、ようやく和彦は声を発することができた。
「その様子だと、総和会に何もされなかったんだな」
「電話で言っただろ。信じてなかったのか」
「不良刑事の言葉を素直に信じろと?」
忌々しげに鷹津は舌打ちし、和彦に手を伸ばしてくる。あっという間に両腕に捉えられた和彦は、きつく抱き締められた。非常階段を上がってきたせいか、ワイシャツ越しでもわかるほど鷹津の体は熱くなって汗ばんでいた。
総和会本部前での騒動のあと、守光と南郷から〈仕置き〉された和彦は呆然自失の状態だったが、それでも鷹津の安否が気になって仕方なかったのだ。あとで連絡を取ってみたが、鷹津の対応は素っ気なく、以来今日まで、顔を合わせるどころか、声を聞くこともなかった。
「別に、襲われるようなことはなかった。俺のことについて、県警にタレコミがあったという話も聞いてないしな。総和会は、俺なんて相手にしてないってことだろ。――ただし数日ほど、妙な車にあとをつけられていたが」
えっ、と声を洩らした和彦は眉をひそめる。一般人ならともかく、刑事である鷹津に限って気のせいということはありえなかった。
「まさか……」
「大事なオンナの身辺を、俺のような小物がうろつくのが気に食わないんだろう」
和彦は軽く身を捩り、鷹津の腕の中から逃れる。尾行されたという事実より、和彦が逃れたことのほうが、鷹津は不愉快そうだった。
「おい――」
「そんなことがあったのに、あんたはここに来たのか」
「今のお前と逢引するには、ここに来るしかないだろ。長嶺組と違って、総和会は、お前の管理が厳重だ」
「……何が逢引だ」
「逢引だろ。会って、甘い言葉を囁いて、欲望のままに体を重ねるんだ」
「……ぼくもずいぶん変わった。前に、ぼくが侮辱されたとき、あんたが言ったんだ。オンナ呼ばわりされるたびに、首に鎖をつけられて、地べたに頭を押しつけられている気がするか、と。そのときは、正直そう感じていた。だけど今は、とりあえずどう侮辱されたとしても、顔は上げていられる。傲然とまではいかないが」
「俺を含めて、先生に骨抜きになった男たちが、先生を特別なオンナにしちまったな。――そのうち、怖いぐらいの凄みを帯びたオンナになるかもな」
耳元で賢吾が低く笑い声を洩らし、危うく官能を刺激されそうになった和彦は、今度こそ身を引く。
「なるわけないだろっ。人をなんだと思ってるんだ」
「語っていいのか?」
澄ました顔で賢吾に問われ、一瞬怯んだ和彦はぼそりと答えた。
「――……聞きたくない」
疲れた、とも洩らすと、賢吾に肩を抱き寄せられる。和彦は素直に身を預けて目を閉じた。
パソコンの電源を落とした和彦は、ぐったりとしてイスの背もたれに体を預ける。今日は朝から晩までみっちりと予約が入っており、満足に休憩も取れないほど忙しかった。陽射しの強い季節となり、肌のトラブルで駆け込んでくる女性が多いのだ。
クリニックが繁盛するのは結構だが、これが連日続くとさすがに体に堪えそうだと、ようやく重い腰を上げた和彦は、緩慢な動作で白衣を脱ぐ。
カルテの整理をしている間に、スタッフたちは全員帰ってしまい、クリニック内は静まり返っていた。この雰囲気は嫌いではなく、むしろ、ほっとできる。特に、総和会本部に滞在している今は。
今晩は残業になるとあらかじめ伝えてあったため、護衛の人間たちは外でじっと待機しているしかない。人を待たせることに良心の呵責を覚えるほうなのだが、ささやかな開放感が勝っていた。
慎重に腕を回して肩の強張りを解すと、最後の仕事として、戸締りや機器の電源を確認して歩く。スタッフたちがしっかりしているため問題はなく、今日の和彦の仕事はこれですべて終わりだ。
帰り仕度をしていると、前触れもなく非常階段に通じるドアがノックされた。弾かれたように駆け出した和彦は、誰何することなく鍵を解き、ドアを開ける。
闇に紛れるようにして立っていたのは、鷹津だった。オールバックの髪型と不精ひげを生やしている、ある意味、いかにも鷹津らしい姿に、和彦は胸が熱くなるのを感じた。
和彦を押し退けるようにして強引に中に入った鷹津は、素早くドアを閉め、鍵をかけた。
「――クリニックの電話は留守電になっていたが、ブラインドの隙間から電気がついているのが見えたから、寄ってみた」
こちらが話しかけるより先に、鷹津が口を開く。微かに震えを帯びた息を吐き出してから、ようやく和彦は声を発することができた。
「その様子だと、総和会に何もされなかったんだな」
「電話で言っただろ。信じてなかったのか」
「不良刑事の言葉を素直に信じろと?」
忌々しげに鷹津は舌打ちし、和彦に手を伸ばしてくる。あっという間に両腕に捉えられた和彦は、きつく抱き締められた。非常階段を上がってきたせいか、ワイシャツ越しでもわかるほど鷹津の体は熱くなって汗ばんでいた。
総和会本部前での騒動のあと、守光と南郷から〈仕置き〉された和彦は呆然自失の状態だったが、それでも鷹津の安否が気になって仕方なかったのだ。あとで連絡を取ってみたが、鷹津の対応は素っ気なく、以来今日まで、顔を合わせるどころか、声を聞くこともなかった。
「別に、襲われるようなことはなかった。俺のことについて、県警にタレコミがあったという話も聞いてないしな。総和会は、俺なんて相手にしてないってことだろ。――ただし数日ほど、妙な車にあとをつけられていたが」
えっ、と声を洩らした和彦は眉をひそめる。一般人ならともかく、刑事である鷹津に限って気のせいということはありえなかった。
「まさか……」
「大事なオンナの身辺を、俺のような小物がうろつくのが気に食わないんだろう」
和彦は軽く身を捩り、鷹津の腕の中から逃れる。尾行されたという事実より、和彦が逃れたことのほうが、鷹津は不愉快そうだった。
「おい――」
「そんなことがあったのに、あんたはここに来たのか」
「今のお前と逢引するには、ここに来るしかないだろ。長嶺組と違って、総和会は、お前の管理が厳重だ」
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「逢引だろ。会って、甘い言葉を囁いて、欲望のままに体を重ねるんだ」
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