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第32話
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御堂を『あいつ』と呼ぶ賢吾の口調は、特別な響きを帯びている。胸の奥で不穏なものを呼び起こされそうで、和彦はうかがうように賢吾の横顔を見る。すると賢吾が、横目でこちらを一瞥した。
「――俺が秋慈と寝たんじゃないかと思ってるだろ、先生」
「べっ、別に、そんなこと……。もしそうだとしても、ぼくは気にしない。責める権利もないし」
握られたままの手を掴み寄せられ、手の甲に賢吾の唇が押し当てられる。触れたところがジンと痺れるほど、熱い唇だった。
「俺と秋慈は、戦友ってやつだ。色っぽいやり取りは一切ない。俺のほうが年上だが、総和会の総本部では、俺があいつに頭を下げていた時期もあったんだぜ。そんな奴に手を出すほど、俺も命知らずじゃねーしな」
「……ぼくに手を出すのは、容易かっただろ」
思わず冷たい眼差しを向けると、賢吾は悪びれることなくニヤリと笑った。
「まあな。だが、俺が先生にとことん骨抜きになったのは、自分でも予想外だった」
「そんなこと言われても、ぼくは喜ばないからな」
御堂との関係を誤魔化そうとしているのではないかと、いつになく疑り深くなっていた和彦は、素っ気なく顔を背ける。
機嫌を取ってもらうのを待っているなと、自覚はあった。まるで賢吾に媚びているようで、そんな自分が堪らなく嫌なのだが、どうしても胸の内に抱えた感情を表に出さずにはいられない。御堂に対して、個人的に好印象を抱きつつあった中、あんな衝撃的な光景を見てしまったため、頭が混乱しているせいもあるだろう。
ふと、髪に何か触れる。慌てて振り返ると、賢吾が髪に指を絡めていた。
「まだ話は終わってないぞ、先生」
賢吾の真剣な顔を見た和彦は、まだ肝心なことを聞いていないことを思い出す。
「さっきの〈あれ〉は……」
「先生に見せてやれと言ったのは、秋慈だ。あの辺りは清道会のシマで、二人にとっては、逢引するには最適で、もっとも安全な場所なんだそうだ。――突然、秋慈が俺に電話してきたかと思ったら、先生の人生を奪って、オンナにしたんなら、惨めな思いはさせるなと説教された。……何か身に覚えはあるか?」
覚えはあった。御堂と会って話したとき、綾瀬を紹介されたあとで、和彦は引け目を感じたのだ。親しみを覚えるほど物腰が柔らかで、人目を惹く秀麗な顔立ちをした御堂に、勝手に親近感を抱いていたからこそ、あの瞬間に抱いた感情は強烈だった。
同じ世界で生きていながら、御堂は力を持ち、その力を振るう術を心得ている一方で、自分は力を持つ男たちの理屈に翻弄されているだけだと、改めて現実を突き付けられたのだ。
表に出したつもりはなかったが、御堂は読み取っていたのだろう。機微に聡いというだけではなく、同じオンナという立場であるからこそ、わかるものがあったのかもしれない。
うつむいた和彦の頭を、賢吾が優しい手つきで撫でてくる。
「この世界、目に見えているものの大半は、虚勢と虚実で成り立っている。面子でメシを食っている連中だからな。舐められたら、終わりだ。どれだけ立派に見える男でも、内情はまったく違うというのも珍しくない話だ。きれいな面をしている秋慈だって、病気で弱りながら、血を吐くような悔しさや惨めさを味わってきただろう。だから俺は、あいつが弱っている間、一度も見舞いには行かなかった。あいつもそれを望んでいなかったはずだ。弱った姿を見られたら、俺の前で虚勢が張れないし、きれいに笑えない」
「……すごい人だな、御堂さんて。ぼくは、そういう想いを味わったことはない」
「そうか? 手のかかる男たちを甘やかして、受け入れて、大半の無茶を腹に呑み込んでいってるだろ」
「そんなこと――」
「俺のオンナでいることは、嫌か?」
ゆっくりと顔を上げた和彦は、キッと賢吾を睨みつける。
「いまさらそんなことを聞くな。最初から、嫌と言わせる気すらないくせに」
「ないな。初めて先生を抱いたときに決めたんだ。こいつを俺の、大事で可愛いオンナにすると。どんな手を使ってでも、逃がさないともな」
身を乗り出してきた賢吾の唇がこめかみに寄せられる。反射的に身を引こうとしたが、間近で賢吾と目が合い、動けなくなった。大蛇の潜む目は、獲物が逃げ出そうとすれば、容赦なく首筋に牙を立てると恫喝しているようだった。怖くて堪らないのに、いつも和彦はこの目を覗き込み、そこに強い執着心を見て取って心のどこかで安堵するのだ。
「先生は、この世界で特別なオンナだ。引け目なんて感じなくていい。傲然と顔を上げていろ」
「無茶……言うな」
「無茶でも、聞き入れるしかねーだろ。俺は先生を手放す気は、これっぽちもないからな」
「――俺が秋慈と寝たんじゃないかと思ってるだろ、先生」
「べっ、別に、そんなこと……。もしそうだとしても、ぼくは気にしない。責める権利もないし」
握られたままの手を掴み寄せられ、手の甲に賢吾の唇が押し当てられる。触れたところがジンと痺れるほど、熱い唇だった。
「俺と秋慈は、戦友ってやつだ。色っぽいやり取りは一切ない。俺のほうが年上だが、総和会の総本部では、俺があいつに頭を下げていた時期もあったんだぜ。そんな奴に手を出すほど、俺も命知らずじゃねーしな」
「……ぼくに手を出すのは、容易かっただろ」
思わず冷たい眼差しを向けると、賢吾は悪びれることなくニヤリと笑った。
「まあな。だが、俺が先生にとことん骨抜きになったのは、自分でも予想外だった」
「そんなこと言われても、ぼくは喜ばないからな」
御堂との関係を誤魔化そうとしているのではないかと、いつになく疑り深くなっていた和彦は、素っ気なく顔を背ける。
機嫌を取ってもらうのを待っているなと、自覚はあった。まるで賢吾に媚びているようで、そんな自分が堪らなく嫌なのだが、どうしても胸の内に抱えた感情を表に出さずにはいられない。御堂に対して、個人的に好印象を抱きつつあった中、あんな衝撃的な光景を見てしまったため、頭が混乱しているせいもあるだろう。
ふと、髪に何か触れる。慌てて振り返ると、賢吾が髪に指を絡めていた。
「まだ話は終わってないぞ、先生」
賢吾の真剣な顔を見た和彦は、まだ肝心なことを聞いていないことを思い出す。
「さっきの〈あれ〉は……」
「先生に見せてやれと言ったのは、秋慈だ。あの辺りは清道会のシマで、二人にとっては、逢引するには最適で、もっとも安全な場所なんだそうだ。――突然、秋慈が俺に電話してきたかと思ったら、先生の人生を奪って、オンナにしたんなら、惨めな思いはさせるなと説教された。……何か身に覚えはあるか?」
覚えはあった。御堂と会って話したとき、綾瀬を紹介されたあとで、和彦は引け目を感じたのだ。親しみを覚えるほど物腰が柔らかで、人目を惹く秀麗な顔立ちをした御堂に、勝手に親近感を抱いていたからこそ、あの瞬間に抱いた感情は強烈だった。
同じ世界で生きていながら、御堂は力を持ち、その力を振るう術を心得ている一方で、自分は力を持つ男たちの理屈に翻弄されているだけだと、改めて現実を突き付けられたのだ。
表に出したつもりはなかったが、御堂は読み取っていたのだろう。機微に聡いというだけではなく、同じオンナという立場であるからこそ、わかるものがあったのかもしれない。
うつむいた和彦の頭を、賢吾が優しい手つきで撫でてくる。
「この世界、目に見えているものの大半は、虚勢と虚実で成り立っている。面子でメシを食っている連中だからな。舐められたら、終わりだ。どれだけ立派に見える男でも、内情はまったく違うというのも珍しくない話だ。きれいな面をしている秋慈だって、病気で弱りながら、血を吐くような悔しさや惨めさを味わってきただろう。だから俺は、あいつが弱っている間、一度も見舞いには行かなかった。あいつもそれを望んでいなかったはずだ。弱った姿を見られたら、俺の前で虚勢が張れないし、きれいに笑えない」
「……すごい人だな、御堂さんて。ぼくは、そういう想いを味わったことはない」
「そうか? 手のかかる男たちを甘やかして、受け入れて、大半の無茶を腹に呑み込んでいってるだろ」
「そんなこと――」
「俺のオンナでいることは、嫌か?」
ゆっくりと顔を上げた和彦は、キッと賢吾を睨みつける。
「いまさらそんなことを聞くな。最初から、嫌と言わせる気すらないくせに」
「ないな。初めて先生を抱いたときに決めたんだ。こいつを俺の、大事で可愛いオンナにすると。どんな手を使ってでも、逃がさないともな」
身を乗り出してきた賢吾の唇がこめかみに寄せられる。反射的に身を引こうとしたが、間近で賢吾と目が合い、動けなくなった。大蛇の潜む目は、獲物が逃げ出そうとすれば、容赦なく首筋に牙を立てると恫喝しているようだった。怖くて堪らないのに、いつも和彦はこの目を覗き込み、そこに強い執着心を見て取って心のどこかで安堵するのだ。
「先生は、この世界で特別なオンナだ。引け目なんて感じなくていい。傲然と顔を上げていろ」
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