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第32話
(23)
しおりを挟む帰路につく車の中で、和彦はまだ呆然としていた。そのくせ、興奮による頬の熱さだけはしっかりと意識できていた。
頬にてのひらを押し当てていると、隣に座っている賢吾がようやく口を開く。
「――少しは落ち着いたか、先生」
ハッとして頬から手を離した和彦は、内心激しくうろたえながらも、努めて平静を装い、囁くような声で応じる。
「平気だ……」
「だったら、さっきの〈あれ〉について、説明をしていいか」
和彦の脳裏に、つい十分ほど前に目にした光景が一気に蘇る。肌に触れた熱気や、艶めかしい息遣いすらも、思い出すのは容易い。肌がざわつき、ジャケットの上から自分の腕をそっとさすった。
頷いて返すと、賢吾は正面を見据えたまま話し始めた。
「秋慈は、清道会の現会長の親類だ。御堂の家自体は、まっとうな堅気だったんだが、親類がやっている商売に対して、あまり危機感がなかった。面倒見のいい親類の家、という認識だったんだろう。だから、息子が出入りすることにも寛容だし、その息子がどういう目に遭っているのかも、気づかなかった」
「……どういう目に遭って、とは?」
当時のことを思い出したのか、賢吾はわずかに目を細めた。
「秋慈が高校生の頃、清道会には、北の地方のある組の若頭が滞在していた。地元で揉め事を起こして、ほとぼりを冷ますためだそうだが、客分として身柄を預かったんだそうだ。清道会会長――当時は組長だったが、昔、その若頭がいる組の組長と五分の兄弟盃を交わした縁で、大層なもてなし方をしたようだ」
和彦が戸惑いの表情を浮かべると、聡い男はすぐに察したらしく、薄い笑みを浮かべる。
「五分の兄弟盃というのは、兄弟とはついているが、上下なしの対等ってことだ。この間柄で問題を起こすと、解決するのはいろいろと難儀する。片方に、従えと命令できるわけでもないからな。――秋慈は、その若頭に手を出された。力ずくだったのか、合意のうえだったのかは、俺も知らない。とにかく、周囲が気づいたときには、若頭が秋慈にのぼせ上がった状態で、自分の組に連れ帰るとまで公言していた。いくら極道の世界でも、高校生のガキに、四十男が手を出したとなったら、なあなあでは済まない。しかもガキは、組長の親類だ」
御堂の痴態を目にした直後だけに、賢吾の話は生々しさを伴う。それに、痛々しさも。意識しないまま和彦は眉をひそめていた。
「若頭のほうも、自分の組の組長から目をかけられている人物で、組同士の面子の問題になりかけた。対処を誤ったら、とことんこじれる。どちらもそれを避けたいが、色恋が絡んでいるだけに、うまい解決方法が見つからない。そこに割って入ったのが、当時、清道会の若衆頭を務めていた綾瀬さんだ。秋慈と若頭も含めて、三人でどういうやり取りがあったのか、当人たちしか知らないが、とにかく片はついた」
「……御堂さんが、オンナになることで?」
「綾瀬さんは、庇護するという名目で、まず秋慈を自分のオンナにした。そして次に、若頭が。秋慈というオンナを共有する形を取って、手打ちとなった。両手打ちだ。これは本来、縄張りに関する揉め事を手打ちにするときのしきたりなんだが、遺恨を残さないようにと、見届人も立てた」
「みんな、納得したのか?」
「腹の内はともかく、表向きは円満に。綾瀬さんは清道会会長と組長の後ろ盾を得て、今は組長補佐だ。若頭のほうも、もとの組に戻ったあとはいろいろ派手にやらかした挙げ句、今はある連合会の大幹部様になっている」
和彦が深く息を吐き出すと、賢吾が片手を握り締めてくる。大きな手を握り返してから、そっと指を絡め合った。
「極道の理屈に振り回されて思うところがあったのか、秋慈も俺たちの仲間入りだ。経緯はどうあれ、清道会の現会長も、可愛がっていた秋慈が同じ道を歩んでくれるということで、いろいろと力を貸したようだ。総和会会長に就いたあと、秋慈を引き立て、いよいよ組織内の地固めをというところで……、まあ、長嶺守光が牙を剥いたというところだ。詳しく知りたいか?」
賢吾に問われ、数瞬間を置いてから、和彦は首を横に振る。自分に関わることなら、耳を塞ぎたくなっても聞くしかないだろうが、そうでないなら、これはもう下世話な興味でしかない気がした。それに、今以上に守光を恐れたくなかった。
「秋慈は、オンナであることで、若い頃の自分の身を守った。今はもう、男の庇護は必要としていないが、それでもあいつは、オンナだったという過去は捨てていないし、そんな自分を否定もしていない。あいつと関係を持った男たちのほうも、捨てさせようとはしないだろうがな」
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