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第32話
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ゆったりとシートに座っている賢吾の姿を認め、車に乗り込んだ姿勢のまま和彦は固まる。
「どうして――」
「ドアを閉めて、シートベルトをしろ、先生」
笑いを含んだ声で賢吾に言われ、素直に従う。賢吾が乗っているのだから当然だが、前に座っているのは長嶺組の組員たちだった。総和会の送迎にいまだに慣れない和彦としては、何日ぶりかのほっとできる感覚だ。
いくらか期待を込めて、賢吾を見遣る。
「もしかして――」
「夜までという約束で、総和会から先生を〈借りた〉んだ。少しつき合ってくれ」
こちらが尋ねたかったことを先回りしたように、賢吾が言う。和彦は落胆を隠しきれなかった。
「……そうか」
夕食でも一緒にとるつもりなのだろうかと思い、あえて行き先は尋ねなかった。
車が発進し、薄闇の気配が感じられる街並みを眺めていた和彦だが、次第に隣の男のことが気になってくる。珍しく、話しかけてこないなと思ったのだ。
何かが、いつもと違う。
和彦はドアのほうにわずかに体を寄せ、警戒しつつ賢吾をうかがい見る。賢吾は、唇をわずかに緩めていた。しかし、何も言わない。
明るい繁華街を通り抜けて車が進んだ先は、独特の雰囲気がある一角だった。人気がないわけではないが、にぎわっていると表現するのはためらわれる。どんな店が並んでいるかは、出ている看板で一目瞭然だ。
「降りるぞ、先生」
賢吾に声をかけられ、和彦は目を見開く。
「ここで?」
「風俗街なんて、お上品な先生は滅多にくることはないだろう。社会勉強だ」
賢吾に体を押され、仕方なく和彦は車を降り、賢吾もあとに続く。
否応なくいかがわしい看板が視界に飛び込んでくる。つい物珍しさからまじまじと見つめてしまうが、どういう店なのかわかると、途端に目のやり場に困る。
「――ここはうちのシマじゃないから、下手に組の者は連れて歩けねーんだ」
落ち着かない和彦と肩を並べて歩きながら、賢吾がそんなことを言い出す。護衛の重要性をそれなりに理解している和彦はぎょっとする。
「それ……、危ないんじゃないのか」
「まあ、何かあっても大丈夫だろ。一応、話は通してあるしな」
「一応って……」
「心配しなくていい。それもこれも、先生の勉強のためだ」
こんな場所で何を学べというのかと、ささやかな反発心から足を止めたが、賢吾に背を押されてすぐにまた歩き出す。
夏らしい気温の高さと、どこからともなく吐き出されるエアコンの熱風が、一緒くたになって通行人に襲いかかってくるようだった。ときおり鼻先を掠める甘ったるい匂いは、通りすぎた女性がつけている香水だろう。それに酒と煙草の匂い。他の匂いは――よくわからない。
賢吾に腕を掴まれ、路地へと入ってさらに数分ほど歩く。角を曲がって現れたのは、古い木造の建物が密集して建ち並んだ小路だった。
こんなところにも住宅地があるのだと思ったが、それも一瞬だ。申し訳程度の小さな看板が出ているところがあり、玄関先には薄ぼんやりと電気もついている。どうやら飲み屋ではないようだ。どの建物もあまりに静かすぎる。
「ここがにぎわうのは、もっと遅い時間だ。さすがにそんな時間に、男二人だけで歩くわけにはいかないからな」
囁くような声で賢吾が言い、倣って和彦も小声で尋ねる。
「どういう場所なんだ。さっきまでの通りとは、雰囲気がまったく違う」
「俺と先生は、合法と非合法の境を跨いできたんだ。堂々と明るいネオンを照らしている店は、風営法の許可を取ってある。法律が許す範囲で、男を癒す行為ができるんだ。だがな、ヤクザがシマにしているのは、相応の理由がある。この一帯は――」
人気はほとんどないというのに、辺りをはばかるように賢吾が耳元に顔を寄せてきた。
「いわゆる連れ込み宿ってやつが並んでる。女を連れ込む場合もあるが、宿に女が待機しているところもある。仕切っているのは、ヤクザだ。皮肉だが、ヤクザが規律を作って、守らせている。そうやって秩序を保ち、女の安全を守っている。その女に体を売らせているのも――ヤクザなんだがな」
説明を聞いて、この小路の薄暗さと、なんの商売をしているかわからない小さな看板の意味を理解した。
これが社会勉強なのだろうかと、和彦は何も言えず、ただ賢吾を見つめる。和彦が何を考えたのかわかったらしく、賢吾は薄い笑みを浮かべた。
「今のは単なる基礎知識だが、先生が関わることはないから、別に覚えなくてもいいぞ」
「なら……」
賢吾がある建物――宿を指さした。
「ここだ。いいか、先生。この宿に入ったら、何が起きても声は出すな。ただ、黙って見ていろ」
「……何が、あるんだ」
「怖いものだ。だが絶対に、目が離せなくなる」
「どうして――」
「ドアを閉めて、シートベルトをしろ、先生」
笑いを含んだ声で賢吾に言われ、素直に従う。賢吾が乗っているのだから当然だが、前に座っているのは長嶺組の組員たちだった。総和会の送迎にいまだに慣れない和彦としては、何日ぶりかのほっとできる感覚だ。
いくらか期待を込めて、賢吾を見遣る。
「もしかして――」
「夜までという約束で、総和会から先生を〈借りた〉んだ。少しつき合ってくれ」
こちらが尋ねたかったことを先回りしたように、賢吾が言う。和彦は落胆を隠しきれなかった。
「……そうか」
夕食でも一緒にとるつもりなのだろうかと思い、あえて行き先は尋ねなかった。
車が発進し、薄闇の気配が感じられる街並みを眺めていた和彦だが、次第に隣の男のことが気になってくる。珍しく、話しかけてこないなと思ったのだ。
何かが、いつもと違う。
和彦はドアのほうにわずかに体を寄せ、警戒しつつ賢吾をうかがい見る。賢吾は、唇をわずかに緩めていた。しかし、何も言わない。
明るい繁華街を通り抜けて車が進んだ先は、独特の雰囲気がある一角だった。人気がないわけではないが、にぎわっていると表現するのはためらわれる。どんな店が並んでいるかは、出ている看板で一目瞭然だ。
「降りるぞ、先生」
賢吾に声をかけられ、和彦は目を見開く。
「ここで?」
「風俗街なんて、お上品な先生は滅多にくることはないだろう。社会勉強だ」
賢吾に体を押され、仕方なく和彦は車を降り、賢吾もあとに続く。
否応なくいかがわしい看板が視界に飛び込んでくる。つい物珍しさからまじまじと見つめてしまうが、どういう店なのかわかると、途端に目のやり場に困る。
「――ここはうちのシマじゃないから、下手に組の者は連れて歩けねーんだ」
落ち着かない和彦と肩を並べて歩きながら、賢吾がそんなことを言い出す。護衛の重要性をそれなりに理解している和彦はぎょっとする。
「それ……、危ないんじゃないのか」
「まあ、何かあっても大丈夫だろ。一応、話は通してあるしな」
「一応って……」
「心配しなくていい。それもこれも、先生の勉強のためだ」
こんな場所で何を学べというのかと、ささやかな反発心から足を止めたが、賢吾に背を押されてすぐにまた歩き出す。
夏らしい気温の高さと、どこからともなく吐き出されるエアコンの熱風が、一緒くたになって通行人に襲いかかってくるようだった。ときおり鼻先を掠める甘ったるい匂いは、通りすぎた女性がつけている香水だろう。それに酒と煙草の匂い。他の匂いは――よくわからない。
賢吾に腕を掴まれ、路地へと入ってさらに数分ほど歩く。角を曲がって現れたのは、古い木造の建物が密集して建ち並んだ小路だった。
こんなところにも住宅地があるのだと思ったが、それも一瞬だ。申し訳程度の小さな看板が出ているところがあり、玄関先には薄ぼんやりと電気もついている。どうやら飲み屋ではないようだ。どの建物もあまりに静かすぎる。
「ここがにぎわうのは、もっと遅い時間だ。さすがにそんな時間に、男二人だけで歩くわけにはいかないからな」
囁くような声で賢吾が言い、倣って和彦も小声で尋ねる。
「どういう場所なんだ。さっきまでの通りとは、雰囲気がまったく違う」
「俺と先生は、合法と非合法の境を跨いできたんだ。堂々と明るいネオンを照らしている店は、風営法の許可を取ってある。法律が許す範囲で、男を癒す行為ができるんだ。だがな、ヤクザがシマにしているのは、相応の理由がある。この一帯は――」
人気はほとんどないというのに、辺りをはばかるように賢吾が耳元に顔を寄せてきた。
「いわゆる連れ込み宿ってやつが並んでる。女を連れ込む場合もあるが、宿に女が待機しているところもある。仕切っているのは、ヤクザだ。皮肉だが、ヤクザが規律を作って、守らせている。そうやって秩序を保ち、女の安全を守っている。その女に体を売らせているのも――ヤクザなんだがな」
説明を聞いて、この小路の薄暗さと、なんの商売をしているかわからない小さな看板の意味を理解した。
これが社会勉強なのだろうかと、和彦は何も言えず、ただ賢吾を見つめる。和彦が何を考えたのかわかったらしく、賢吾は薄い笑みを浮かべた。
「今のは単なる基礎知識だが、先生が関わることはないから、別に覚えなくてもいいぞ」
「なら……」
賢吾がある建物――宿を指さした。
「ここだ。いいか、先生。この宿に入ったら、何が起きても声は出すな。ただ、黙って見ていろ」
「……何が、あるんだ」
「怖いものだ。だが絶対に、目が離せなくなる」
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