血と束縛と

北川とも

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第32話

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「ここが片付いたら、すぐに挨拶にうかがうつもりだったのに……。わたしが義理を欠いたと、陰口を叩かれるかもしれませんね」
「お前のことを、そんなふうに言う奴はいやしない。不義理どころか、孝行息子だと喜んでるだろう。――会長も」
 御堂の凛とした声と、綾瀬のしわがれた声とのやり取りに、和彦の左右の耳は少し混乱していた。綾瀬の独特の声を聞いたばかりで慣れていないため、集中していないと、単語を聞き逃してしまいそうだ。
 和彦は、この世界で『会長』と呼ばれる人物は守光しか知らないが、二人の様子からして、どうやら別の人物のことを指しているようだ。
 部外者の人物が聞いていい会話ではないのかもしれないと、一人でうろたえる和彦に、ふと綾瀬が視線を向けてくる。男らしい顔が、露骨なまでに好奇の色を浮かべた。
「長嶺会長お気に入りの医者が、どうしてこんなところに……?」
 和彦は弾かれたように立ち上がり、説明しようとしたが、それを御堂に制された。
「不思議ではないでしょう。佐伯くんは、長嶺組――というより、長嶺家の所縁の人です。そしてわたしは、長嶺組長とは昔馴染みですよ」
「……お前と彼が親しいなどと、これまで聞いたことはないが」
「昨日、初めて会ったばかりです」
 澄ました顔で御堂が答え、綾瀬は面喰ったようにわずかに目を丸くする。しかし次の瞬間には、皮肉っぽく唇を歪めた。
「なるほど」
 意味ありげに頷いた綾瀬が、改めて和彦を見る。このときにはもう、和彦に対する好奇の色は払拭されていた。
「初めまして――と言いたいところだが、実は俺は、花見会の席で君を間近で見ている」
「そうなんですか……。申し訳ありません。あのときは初めてのことばかりで緊張していて、人の顔もまともに見られない状態だったものですから」
「そりゃそうだろうな。前には長嶺会長、隣には南郷がいれば。もっとも、それにしてはやけに落ち着いて見えたが、そうか、緊張しすぎて現実味が乏しかったというところか」
 まさにその通りだったので、苦笑して和彦は頷く。すると御堂が気をつかい、控えめに綾瀬に話しかけた。
「綾瀬さん、自己紹介してください。佐伯くんが、この人は何者なんだろうという顔をしてますから」
「ああ、そうか、俺の顔を知らないなら、当然正体も知らないんだな。――清道会組長補佐の綾瀬だ。よろしく、佐伯先生」
 聞き覚えがある、と言っては失礼だろう。清道会は、総和会を構成する組の一つの名だ。前に賢吾が、世間話の流れから、長嶺組に次ぐ影響力を持つ組として、清道会の名を挙げていた。その理由が――。
「総和会の前会長は、清道会の出だ。そして秋慈は、前会長の親類にあたる。その縁で、俺はこいつがガキの頃から知っている。図々しく押しかけてきたのも、そういうわけだ」
「押しかけてきたなんて。いつでも歓迎しますよ、綾瀬さん」
「よく言う。体を壊してからは、俺の見舞いすら拒否していた薄情な奴が」
 冗談のようなやり取りを交わした綾瀬と御堂がこのとき、視線を交わし合う、その瞬間の空気に、和彦はわずかな違和感を覚えた。
 綾瀬が手を伸ばし、御堂の髪を軽く払う。忌々しげに呟いた。
「なんだ、この髪の色は。早く染めろ」
「似合いませんか?」
「そういうことじゃない。いかにも病み上がりで、ぞっとしない。……まだ、不吉の影がつきまとっているようだ」
「ああ、なるほど。あなたが本当に言いたいことがわかりましたよ」
 納得したように御堂が頷き、なぜか綾瀬が苦々しげに唇を歪める。和彦がまったく入っていけない会話だった。自分がいては立ち入ったことが話せないだろうと、今度こそ暇を告げる。
「――……あの、ぼくはこれで……。すみません。大した用もないのに、お邪魔してしまって」
 応接室を出ようとした和彦を引き止めたのは、綾瀬だった。
「ゆっくりしていけばいい、佐伯先生。俺はちょっと秋慈の顔を見に寄っただけで、もう行かないといけないんだ」
「忙しいですね」
 そう言って御堂が肩を竦める。
「悠然としている余裕はなくてな。お前も復帰したとなると、さらに忙しくなるだろうが……、それはまあ、歓迎できる忙しさだ」
 御堂の見送りを断り、訪れたとき同様、慌しく綾瀬は応接室を出ていった。
 残された和彦と御堂はまず顔を見合わせたあと、微妙に複雑な表情を浮かべる。御堂に促されて、結局またソファに座っていた。ゆっくりと肩から力を抜き、ほっと息を吐き出すと、御堂がくすりと笑った。
「君ほどの人でも、緊張するんだな。長嶺の男たちとつき合いがあると、嫌というほど大物たちとは顔を合わせているだろう」

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