血と束縛と

北川とも

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第32話

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 文机に置いたノートパソコンに向き合い、持ち帰った仕事をしていた和彦はふと時間を確認する。そろそろ一息つこうと思ったが、その前に務めを果たさなければならない。
 客間を出た和彦は、サイドボードに仕舞ってある血圧計を抱えて、守光の部屋に行く。声をかけ、応じる声を受けて襖を開けると、守光もまだ仕事をしていた。
 畳の上に名簿らしきものが印刷された紙を広げ、それを眺めながら守光は電話で誰かと話している。出直そうかと思ったが、当の守光に手招きをされたので部屋に入った。
 守光が検査入院から戻ってきてから、朝と夜の二回、血圧を計るのが和彦の日課となっていた。これまでは吾川の担当だったそうだが、守光の体調をなるべく把握しておくためにも、ここに滞在している間は任せてもらうことにした。
 名簿を見ながら守光は、出席者の確認らしきことを電話の相手としているようだった。また会合があるのだろうかと、頭の片隅でそんなことを考えながら、守光の片腕を取って黙々と血圧を測る。
 守光の邪魔をしないつもりで、速やかに血圧計を片付けていた和彦だが、ふと顔を上げ、飾り棚の一番上に置かれた木箱に目を止める。きちんと紐が結ばれており、もしかすると箱書きが入っているような立派なものかもしれないと考えたとき、夕方、守光のもとに骨董を扱う人物が訪れていたことを思い出した。
 木箱の大きさからして、掛け軸を購入したのだろうか――。
 手を止め、木箱を見つめる和彦に気づいたのか、守光が声をかけてきた。
「何か気になるかね」
 慌てて隣を見ると、いつの間にか守光は電話を終えていた。
「あっ、いえ、箱が――」
「箱?」
 守光の視線が、飾り棚の上へと向けられる。
「ああ、あれか。古くからの友人が、骨董品以外に、いろいろと変わった品も扱っていてな。それで、頼んでおいたものが出来上がったというので、さっそく今日持ってきてもらった」
『出来上がった』という表現が引っかかったが、あえて確認するほどのことでもない。
 血圧を計り終えた和彦はすぐに客間に戻ってもよかったが、それではあまりに素っ気ない。守光が毎晩、自分との他愛ない会話を楽しんでいることを、なんとなくだが感じ取っていた。ただ、自分から話題を振るのは苦手だ。そんな和彦の気持ちを知ってか知らずか、畳の上の紙をまとめながら守光が言った。
「もうすぐ、ちょっとした行事があるから、今その出席者の確認作業をしているんだ」
「……その名簿ですか?」
「春の花見会のような大規模なものではないが、総和会にとっては欠かせない大事な行事だ。――今年は、あんたにも出席してもらおうかな」
 冗談めかした口調ながら、こちらを見る守光の目は真剣だった。このとき和彦の脳裏を過ったのは、守光から提案されている、総和会出資によるクリニックの経営の話だった。すでにもう逃げ場がない状態に追い込まれており、あとは和彦が頷くだけというところまできているが、守光はそこまではまだ求めてこない。
 あとほんのわずかだけ、強引に話を進めてしまえば、和彦は承諾するとわかっているはずなのに。
「そういえば、今日は地下で体を動かしたと言っていたが、使い心地はどうだったかね?」
 話題が変わったことに内心でほっとしながら、和彦は笑みをこぼす。
「立派ですね。スポーツジムに行かなくても、十分に体を動かせるマシンが揃っていて、プールまであるし。ぼくが行ったときは、人もあまりいませんでしたから、のびのびと過ごせました」
「ということは、あんたをここに閉じ込めても、運動不足にはしなくて済むということか」
 えっ、と声を洩らして和彦が目を丸くすると、守光は楽しげにこう言った。
「――冗談だよ」




 いくら体を動かしたところで、根本的な気分転換になるわけではないと、土曜日の昼下がりに和彦は痛感していた。
 平日は仕事で忙しいため、とりあえず体を動かしておけばストレスは発散できる。仕事がない土日については、これまでは、守光の体の状態を気にかけたり、総和会本部内での自分の身に置き方についてまだ戸惑っていたため、住居スペースで過ごしていても、不都合はなかったのだ。
 しかし、和彦自身、呆れるような順応性の高さが、ここにきて厄介な問題を引き起こしていた。
 鉄板で覆われて外の景色を見ることができない窓を眺め、重苦しいため息をつく。昼食をとり終え、未読の本に手を伸ばしたりしていたが、文章を目で追うには集中力が足りない。自分がこんなことをしたいわけではないと、和彦自身がよくわかっているせいだ。
 暇を持て余している和彦とは違い、守光は今日も忙しい。朝食は一緒にとったが、その後は予定が詰まっているということで、慌しく出かけていった。
 一人取り残され、正直気楽ではあるのだが、だからといってのびのびと過ごせるわけではない。
 客間の中をうろうろと歩き回った挙げ句、和彦は心を決めた。Tシャツの上からパーカーを羽織り、パンツのポケットに財布をねじ込む。

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