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第32話
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たった今思い出していた男の声だった。飛び上がるほど驚いて和彦が顔を上げると、窓ガラスには南郷も映っていた。エレベーターが到着すれば気がつくはずだが、どうやら南郷は階段で上がってきたらしい。
驚きのあまり声も出せない和彦の隣に、当然のように南郷が腰掛ける。今日の仕事は終わりなのか、スーツではなく、ラフなポロシャツ姿に変わっていた。
「愛されて満たされている人間の顔をしていた。あんたのそういう顔を、初めて見た」
「いえ、そんな……」
南郷が隣に座っただけだというのに、神経がピリピリとざわつく。和彦は、気の立った獣を刺激しないよう、息を潜めながら窓ガラスに映る南郷を観察する。
南郷は、笑みを浮かべているように見えた。裏の世界に生きる男特有ともいうべき、凄みを帯びた怖い笑みだ。数時間前、和彦の体を組み敷きながら、同じような笑みを賢吾は南郷に向けていた。敵意とも悪意とも違う、しかし攻撃的な感情を、笑みに込めていたのだ。
賢吾の攻めに和彦が我をなくして乱れていると、南郷はいつの間にか立ち去っており、賢吾も、南郷について最後まで何も言わなかった。
南郷と二人きりでいる空気にすぐに耐えきれなくなり、和彦は空の紙コップを手に立ち上がろうとしたが、肩に大きな手がかかり阻まれた。
「まだいいだろう、先生」
鋭い光を宿した目で見つめられると、逆らえない。和彦がソファに座り直すと、南郷は満足そうに頷く。
「……どうせ部屋に戻っても、眠れないんだろう。俺もそうだ。会合が終わったらすぐに帰るつもりだったが、気持ち的に、本部から離れたくなくなった。それに、気が高ぶって眠れない」
横目でうかがった南郷は、言葉とは裏腹に、冷たい眼差しで窓ガラスを見据えていた。漠然とだが感じるものがあった和彦は、思わずこう口にしていた。
「南郷さん、機嫌が悪いみたいですね」
驚いたように軽く目を見開いた南郷が、こちらを見る。余計なことを言ってしまったと、顔をしかめた和彦は今度こそ立ち上がったが、ソファを回り込んだところで南郷に腕を掴まれた。
「もう少しつき合ってくれてもいいだろう、先生。――あんたが今言った通りだ。俺は機嫌が悪い。久しぶりに、嫌いな奴と顔を合わせたんだ。……いや、嫌いという表現じゃ足りないな。憎くて、妬ましい。そいつの澄ました面を見ると、暴力的衝動を抑えられなくなる。昔から。魔が差したように、ぶちのめしたくなるんだ」
淡々とした口調とは裏腹に、南郷の言葉は激しい。今本人が言った物騒な衝動が滲み出ているようだ。和彦が顔を強張らせると、南郷はさらに威嚇するように顔を覗き込んでくる。
「あんたがいけない。俺は今夜、抱え込んだ胸糞の悪さを、あんたと長嶺組長の濃厚な絡みを思い返しつつ、自分を慰めて処理するつもりだった。それなのに、満たされた顔をしたあんたが一人で目の前に現れた。間が悪い。……俺にとっては、幸運だが」
掴まれた腕を引っ張られると、逆らえなかった。極端に痛みに弱いと自覚している和彦だからこそ、今の南郷なら、気に食わなければ容赦なく手を上げてくると確信できたからだ。
南郷は、守光の住居スペースとは逆の方向に歩き出す。来客用の宿泊室があるという一角だが、和彦はまだ足を踏み入れたことはなかった。
広々とした廊下は静かだった。どの客室のドアも固く閉ざされており、中から物音も漏れてこない。さらに廊下は奥へと続いているが、照明すらついておらず、真っ暗だ。この先にまだ部屋がありそうだが、様子をうかがうことすらできなかった。南郷が、唯一札のかかったドアを開け、和彦を引きずりこんだからだ。
ビジネスホテルの一般的なツインルームぐらいの広さだった。置いてある家具類も、そう変わらない。テーブルの上には、飲みかけのペットボトルや新聞紙などが置いてあり、扉が開いたままのクローゼットの中には、見覚えのあるスーツがかかっていた。
「使い勝手がいいから、ここで暮らしたいぐらいなんだが、隊を率いている身なんだから、相応の部屋を借りろと、前にオヤジさんに言われたんだ。ここで過ごすのは、月に数日に留めている」
唐突に、南郷に手荒く髪を撫でられて、和彦は怯える。思わず後退ろうとしたが、うなじに手がかかり、反対に引き寄せられた。
「んうっ」
有無を言わせず唇を塞がれる。貪るように激しく唇を吸われたあと、強引に口腔に舌を押し込まれて、舐め回されながら唾液を流し込まれた。獣じみた、浅ましくて下品な口づけだが、拒絶することもできない。和彦は微かに喉を鳴らして受け入れる。
抱き締めてくる南郷の腕の力が強くなり、汗の匂いも意識する。数時間前に嗅いだ賢吾の汗の匂いとは、まったく違う雄の匂いだった。
驚きのあまり声も出せない和彦の隣に、当然のように南郷が腰掛ける。今日の仕事は終わりなのか、スーツではなく、ラフなポロシャツ姿に変わっていた。
「愛されて満たされている人間の顔をしていた。あんたのそういう顔を、初めて見た」
「いえ、そんな……」
南郷が隣に座っただけだというのに、神経がピリピリとざわつく。和彦は、気の立った獣を刺激しないよう、息を潜めながら窓ガラスに映る南郷を観察する。
南郷は、笑みを浮かべているように見えた。裏の世界に生きる男特有ともいうべき、凄みを帯びた怖い笑みだ。数時間前、和彦の体を組み敷きながら、同じような笑みを賢吾は南郷に向けていた。敵意とも悪意とも違う、しかし攻撃的な感情を、笑みに込めていたのだ。
賢吾の攻めに和彦が我をなくして乱れていると、南郷はいつの間にか立ち去っており、賢吾も、南郷について最後まで何も言わなかった。
南郷と二人きりでいる空気にすぐに耐えきれなくなり、和彦は空の紙コップを手に立ち上がろうとしたが、肩に大きな手がかかり阻まれた。
「まだいいだろう、先生」
鋭い光を宿した目で見つめられると、逆らえない。和彦がソファに座り直すと、南郷は満足そうに頷く。
「……どうせ部屋に戻っても、眠れないんだろう。俺もそうだ。会合が終わったらすぐに帰るつもりだったが、気持ち的に、本部から離れたくなくなった。それに、気が高ぶって眠れない」
横目でうかがった南郷は、言葉とは裏腹に、冷たい眼差しで窓ガラスを見据えていた。漠然とだが感じるものがあった和彦は、思わずこう口にしていた。
「南郷さん、機嫌が悪いみたいですね」
驚いたように軽く目を見開いた南郷が、こちらを見る。余計なことを言ってしまったと、顔をしかめた和彦は今度こそ立ち上がったが、ソファを回り込んだところで南郷に腕を掴まれた。
「もう少しつき合ってくれてもいいだろう、先生。――あんたが今言った通りだ。俺は機嫌が悪い。久しぶりに、嫌いな奴と顔を合わせたんだ。……いや、嫌いという表現じゃ足りないな。憎くて、妬ましい。そいつの澄ました面を見ると、暴力的衝動を抑えられなくなる。昔から。魔が差したように、ぶちのめしたくなるんだ」
淡々とした口調とは裏腹に、南郷の言葉は激しい。今本人が言った物騒な衝動が滲み出ているようだ。和彦が顔を強張らせると、南郷はさらに威嚇するように顔を覗き込んでくる。
「あんたがいけない。俺は今夜、抱え込んだ胸糞の悪さを、あんたと長嶺組長の濃厚な絡みを思い返しつつ、自分を慰めて処理するつもりだった。それなのに、満たされた顔をしたあんたが一人で目の前に現れた。間が悪い。……俺にとっては、幸運だが」
掴まれた腕を引っ張られると、逆らえなかった。極端に痛みに弱いと自覚している和彦だからこそ、今の南郷なら、気に食わなければ容赦なく手を上げてくると確信できたからだ。
南郷は、守光の住居スペースとは逆の方向に歩き出す。来客用の宿泊室があるという一角だが、和彦はまだ足を踏み入れたことはなかった。
広々とした廊下は静かだった。どの客室のドアも固く閉ざされており、中から物音も漏れてこない。さらに廊下は奥へと続いているが、照明すらついておらず、真っ暗だ。この先にまだ部屋がありそうだが、様子をうかがうことすらできなかった。南郷が、唯一札のかかったドアを開け、和彦を引きずりこんだからだ。
ビジネスホテルの一般的なツインルームぐらいの広さだった。置いてある家具類も、そう変わらない。テーブルの上には、飲みかけのペットボトルや新聞紙などが置いてあり、扉が開いたままのクローゼットの中には、見覚えのあるスーツがかかっていた。
「使い勝手がいいから、ここで暮らしたいぐらいなんだが、隊を率いている身なんだから、相応の部屋を借りろと、前にオヤジさんに言われたんだ。ここで過ごすのは、月に数日に留めている」
唐突に、南郷に手荒く髪を撫でられて、和彦は怯える。思わず後退ろうとしたが、うなじに手がかかり、反対に引き寄せられた。
「んうっ」
有無を言わせず唇を塞がれる。貪るように激しく唇を吸われたあと、強引に口腔に舌を押し込まれて、舐め回されながら唾液を流し込まれた。獣じみた、浅ましくて下品な口づけだが、拒絶することもできない。和彦は微かに喉を鳴らして受け入れる。
抱き締めてくる南郷の腕の力が強くなり、汗の匂いも意識する。数時間前に嗅いだ賢吾の汗の匂いとは、まったく違う雄の匂いだった。
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