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第32話
(1)
しおりを挟む守光の体調は安定している。和彦は、病院の検査結果に目を通し、賢吾からの又聞きではあるが医者の診断も聞いたが、問題はないようだ。つまり、医者である和彦が側についている必要はないということになる。しかし守光は、何も言わない。
守光に請われて生活を共にしている身としては、もう体調の心配もないようなのでお暇したいと、堂々と切り出すことはできず、和彦は相変わらず、総和会本部とクリニックを往復する生活を送っていた。
正直、長嶺の本宅とは違い、気が休まらない環境だ。こういう状況になって初めて、自分はこれまで、賢吾にずいぶん自由に過ごさせてもらっていたのだと痛感する。
もっとも、物騒な男たちに目をつけられる以前は、さらなる自由を享受していたのだが――。
慣れていくものだなと、ウィンドーの外を流れる景色を眺めながら、和彦はふっと苦笑を洩らす。
「――どうかしましたか、先生」
微かな気配を感じ取ったのか、ハンドルを握る人物が声をかけてくる。
クリニックへの送迎は、長嶺組では担当する組員が決まっていたため気心も知れており、帰宅途中に買い物につき合ってもらったり、夕食を一緒にとるなどしていたのだが、総和会では日によって顔ぶれが変わる。長嶺組の組員たちとは雰囲気も違い、話しかけるのもためらわれ、和彦は必要最低限のことしか口にしない。
総和会は、そんな和彦の様子に思うところがあったのか、それともたまたまなのか、今日の迎えの車の運転手は、和彦の親しい人物だった。
「君に運転手を務めてもらうのは久しぶりだと思って。緊張しなくていいから、ありがたい」
「緊張なんて……。気をつかわずに、自由に振る舞えばいいのに」
「そうは言うけど、長嶺組の組員たちと違って、総和会の人間は気軽に話しかけてくれない。君ぐらいのものだ」
ああ、と声を洩らした中嶋が一人で納得したように頷く。
「それは、仕方ないですよ、先生」
「何が仕方ないんだ?」
「先生はもう、総和会内での大物です。一介の構成員は恐れ多くて、気軽に話しかけるなんて……」
「……大げさだな。そこまで言われると、バカにされているみたいだ」
「とんでもない。先生に対する扱いについては、総和会の中では事細かに注意がなされているんです。特に厳しく言われたのは、先生を軽んじる言動を禁じる、ですね。南郷さんが例の騒動で、先生に謝罪したことが決定的でした。あれで、先生はとにかく〈特別〉だという意識が、すり込まれたと思います」
本当に大げさだと思いながら中嶋の言葉を聞いていたが、南郷の話題が出たところで、和彦は姿勢を正す。
南郷を土下座させてしまった件については、自分でも戸惑うほど事が大きくなったと感じていたが、こうして他人の口から語られると、実は守光と南郷で仕組んだうえでの、あの顛末ではないかと思えてくる。なんといっても守光と南郷は――。
守光から与えられた、南郷と道具を駆使しての罰が蘇り、胸の奥がざわつく。
行為のあと、いつの間にか南郷の姿は消えており、守光の態度も、何事もなかったかのように普通だった。だから和彦も、あえて触れない。力を持たないオンナとしては呑み込むしかないし、守光にしても、和彦はそうするであろうと確信しているはずだ。
何もかも慣れていくしかないのだろうなと、今度は苦笑すら洩らさずに思った和彦は、中嶋の後ろ姿を眺める。
「この位置で君と総和会のことを話していると、なんだか懐かしい感じがする……」
「俺が初めて会ったときの先生は、何もかもおっかなびっくりという印象でしたね。あれはあれで、どことなく仕種が小動物めいて、可愛かった」
「……今はふてぶてしくなったと言いたいんだろう」
長嶺組での身の置き方にもまだ戸惑っている中、総和会という得体の知れない巨大な組織から仕事を回されることになったとき、中嶋が和彦の送迎を務めていた。普通の青年のようなハンサムな顔立ちと、ヤクザというより限りなく堅気に近い雰囲気が印象的で、どうして彼のような人間がこんな危険な世界にいるのかと、和彦は不思議だったのだ。
元ホストいうこともあってか、中嶋は会話を引き出す術にも長けていた。あのときの車中でのやり取りがあったからこそ、今のような和彦と中嶋の関係があると言ってもいいだろう。
「あの頃に比べたら、ずいぶん状況が変わった。――君も」
「先生ほどではないですよ」
「……謙遜しなくていいだろう」
「本気で言ってます」
軽やかな笑い声とともに言われると、和彦はもう何も言えない。
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