血と束縛と

北川とも

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第31話

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 このとき初めて、南郷が不愉快そうに顔をしかめた。和彦の前では、悠然と物騒な笑みを浮かべることが多い男が、やっと本性を現したのだ。南郷から漂う粗暴さや荒々しさにそれでなくても気圧される和彦だが、そこに敵意が加わると、自分に向けられたわけでもないのに身が竦む。
「手を離してもらおうか。その先生は、うちの大事な客人だ」
「ゴキブリが取り澄ました言葉を使うな。こいつは、長嶺の男たちのオンナ、だろ」
「そしてあんたは、そんな先生の番犬だったな。ここまで来るぐらいだ。よっぽど心配してのことだろうが、生憎、大事に大事にしているぜ。――なあ、先生?」
 南郷に片手を差し出され、怯む。南郷の意図を察して、一瞬反発心が芽生えたが、和彦にはその手を払いのけることはできない。
 鷹津と南郷が初めて顔を合わせたときから感じていたが、この二人の男はおそろしく気質が合わない。鷹津と賢吾も関係としては最悪だが、まだ互いの利害のすり合わせを行える程度には、話ができる。
 しかし、相手が南郷となると、鷹津は普段の狡猾さすらかなぐり捨てようとする危うさが漂う。利用もできない敵だと、鷹津はそう南郷を認識しているのだ。
 どちらの男に対する感情なのか、自分でも判別できないが、和彦は心の中で呟いた。怖い、と。
 傍らの鷹津を見て、肩にかかった手をそっと押し返す。
「大丈夫だから、帰ってくれ。ここで揉めてほしくない」
「と、先生が言っている」
 茶化すように言った南郷を鋭く一瞥した和彦は、声を潜めて鷹津を諭す。
「……あんたが刑事の肩書きを失うと、ぼくが困る。あんたにはまだ――、ぼくの番犬でいてもらわないと」
 鷹津はそっと目を細めると、何も言わず身を翻して立ち去った。入れ替わるように和彦の傍らに立った南郷が、鷹津の後ろ姿を見送りながら、皮肉げに呟く。
「よく躾けられた番犬だ。ああいう厄介な男を上手く手懐けられる秘訣を知りたいもんだ」
「あまり……、あの人を挑発するようなことを言わないでください」
「言う相手が違うな。俺が仕えているのは、オヤジさんだ。あんたが命令できるのは、あの刑事に対してだけだ」
「命令じゃありません。頼んでいるんです」
「――考慮しよう」
 そう応じて、南郷が再び片手を差し出してくる。和彦は気づかなかったふりをして、顔を背ける。次の瞬間、ゾクリとした。
 とっくに本部の敷地に入ったと思っていた車がまだ停まっていた。後部座席の様子までは見えないが、車中からこちらの様子を見ることはできるだろう。
 鷹津を庇う和彦を、南郷すら従わせている老獪な男はどう感じたか――。
 和彦の額にじっとりと浮かんだのは、冷や汗だった。


 四階の守光の住居に戻った和彦は、促されるまま吾川に羽織を脱がせてもらう。
 ダイニングのイスに腰掛けると、差し出された冷たいおしぼりを受け取る。暑さでのぼせたのか、鷹津と南郷の対峙に気が昂ぶったのか、少し頭がぼうっとしていた。おしぼりを額に押し当て、次に、汗ばんだ首筋を撫でていると、そこに冷たいお茶も出る。口を湿らせたところでやっと人心地がついた。ここで、大事なことを思い出す。
「あの、会長は……?」
 和彦より先に本部に入ったはずなのに、部屋にはまだ守光の姿はなかった。
「三階で先に所用を済ませられるそうです」
「……そう、ですか」
 鷹津の件で何か手を回しているのではないかと危惧するのは、考えすぎだろうか。
 落ち着かない気持ちを持て余しながらお茶を飲み干すと、すかさず吾川にお代わりを勧められる。それを断り、着替えるために立ち上がる。
 着物を脱ぐのを手伝ってほしいと吾川に言おうとしたが、その吾川が深々と頭を下げたのを見て、和彦は振り返る。守光が、南郷を伴ってダイニングに入ってきた。
「先生、わしの部屋に来てくれ」
 すぐに、さきほどの件だとわかった。和彦は顔を強張らせながら、守光のあとについて部屋に入る。吾川が出してくれた座布団に座ると、静かに襖が閉められ、守光と二人きりになった。
「――さっきの男は、県警の暴力団担当係の刑事で間違いないかね」
 開口一番の守光の言葉に、和彦はピクリと肩を震わせる。口調は穏やかながら、守光の声には夏の暑さすら跳ねつける冷ややかな響きがあった。
 やはり、見逃してくれるほど甘い組織ではない。和彦は短く息を吐き出して、覚悟を決める。いまさら隠し立てするようなことはなかった。
「そうです。……名前についても、もうご存じだと思いますが……」

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