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第31話
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雨の日に、三田村に見守られながら紫陽花を眺めたことを思い出し、慌てて意識から追い払う。守光と一緒にいて、他の男のことを思ったなどと、悟られるのが怖かった。
「あんたとの約束は、できる限り果たしたいと考えていたが、結局、蛍を見ることはできなかったな」
蛍、と口中で反芻した和彦は、知らず知らずのうちに頬を熱くする。どういう状況で交わした会話か思い出したのだ。守光は穏やかな口調で続けた。
「まあ、焦らなくてもいいだろう。また来年がある」
「そうですね……」
頷いたところで、まだ鮮やかな色を残している数少ない紫陽花に目を止める。見入ってしまい、足元への注意を怠ったところで、小石につまずいて軽くよろめく。転ぶほどではなかったが、和彦の腕を取って支えたのは、さきほどから二人の側に付き従っていた南郷だった。
顔を強張らせながらも、頭を下げて礼を言う。
「……ありがとうございます。大丈夫です」
南郷は何も言わず手を離し、和彦はさりげなく身を引く。
護衛の男たちが待機を命じられた中、南郷だけは当然のように同行し、守光もまた何も言わなかった。南郷だけは、やはり特別なのだ。
特別だから、〈あれ〉に触れることも許されているのか――。
守光の部屋の飾り棚に仕舞われている漆塗りの文箱を思い出し、そっと身を震わせる。あのとき守光は、和彦の戸惑いの理由を把握しているような口ぶりだったが、それ以上は何も言わなかった。
自分のオンナと、自分の側近との間に淫らな行為があったとしても許容しているのだと、和彦は感じた。
そもそも、守光に忠義を尽くしている南郷が、守光を裏切るような行為を積極的に行うとは考えにくい。何もかも、守光に報告していた――いや、守光の命令によるものだったのかもしれない。
急に空恐ろしさを感じ、着物の下でざっと肌が粟立つ。和彦は足を止め、先を歩く二人の男の背をじっと見つめる。なるべく考えないようにしていたが、いよいよ現実を真正面から受け止めるときがきたのだ。
和彦がそうすることを、〈オモチャ遊び〉を仄めかした守光は望んでいるのだろう。
自分から切り出すべきか、切り出されるのを待つべきか。立ち止まったまま逡巡する和彦を、守光と南郷が同じタイミングで振り返る。
「どうかしたかね、先生。もしかしてさっき、足を痛めたんじゃ……」
「いえ、なんでもありません」
二人の元に歩み寄ると、守光がさりげなく南郷に目配せをする。意図を察したように南郷は頷いた。一体何事かと困惑する和彦に、守光は前方を指さした。
「もう少し歩こうか」
和彦が守光と肩を並べて歩き出しても、南郷はその場に立ち止まったまま動かなかった。ちらりと背後を振り返った和彦に、かまわず守光が話しかけてくる。
「――病院のベッドでただ横になっている間、反省したことがある。あんたに対して、言葉が足らなかったと」
和彦は、すぐには心当たりが思い浮かばなかった。わずかに首を傾げると、守光は唇の端に薄い笑みを刻む。
「新しいクリニックの開業についてだ」
あっ、と声を洩らした和彦は、反射的に守光の顔をうかがい見ていた。先日、そろそろ結論を出してほしいと言われていたが、医者としての自信を失いかけ、そこからどうにか立ち直ったところに、守光が倒れたという知らせを受けて総和会本部に詰めたりと、とてもではないが大きな選択ができる余裕はなかった。
そう説明することが言い訳がましく思え、和彦は口ごもる。守光は機嫌を損ねた様子はなく、ゆったりとした足取りで歩きながら続けた。
「先日は、あんたに綺麗事を言いすぎた」
「……ぼくは、組織が個人に対して示せる〈誠意〉だと……」
「組織の形式のために、特別な医者であるあんたが必要だとも言った」
守光に言われた内容は覚えている。完璧な医者であることは求めていないとも言われたのだ。ずいぶん明け透けな話をされたと感じたが、あれでも守光にとっては綺麗事になるらしい。
一体、さらに何を言われるのかと、和彦は身構える。
「言ったことにウソはない。医者としてのあんたに期待している。ただ、総和会会長として、あんたに任せるクリニックには、別の面でも期待している」
「別の面、ですか」
「総和会が出資したクリニックができることで、新たな金の流れができる」
すぐには意味が理解できなかった和彦は、ただ守光の顔を見つめる。
「美容クリニックがどういうものか、あんたが持つ知識には到底及ばないだろうが、わしも簡単ながら説明を受けた。――扱っている高価な医療機器や薬剤などを、海外から購入することも多いそうだが」
「あんたとの約束は、できる限り果たしたいと考えていたが、結局、蛍を見ることはできなかったな」
蛍、と口中で反芻した和彦は、知らず知らずのうちに頬を熱くする。どういう状況で交わした会話か思い出したのだ。守光は穏やかな口調で続けた。
「まあ、焦らなくてもいいだろう。また来年がある」
「そうですね……」
頷いたところで、まだ鮮やかな色を残している数少ない紫陽花に目を止める。見入ってしまい、足元への注意を怠ったところで、小石につまずいて軽くよろめく。転ぶほどではなかったが、和彦の腕を取って支えたのは、さきほどから二人の側に付き従っていた南郷だった。
顔を強張らせながらも、頭を下げて礼を言う。
「……ありがとうございます。大丈夫です」
南郷は何も言わず手を離し、和彦はさりげなく身を引く。
護衛の男たちが待機を命じられた中、南郷だけは当然のように同行し、守光もまた何も言わなかった。南郷だけは、やはり特別なのだ。
特別だから、〈あれ〉に触れることも許されているのか――。
守光の部屋の飾り棚に仕舞われている漆塗りの文箱を思い出し、そっと身を震わせる。あのとき守光は、和彦の戸惑いの理由を把握しているような口ぶりだったが、それ以上は何も言わなかった。
自分のオンナと、自分の側近との間に淫らな行為があったとしても許容しているのだと、和彦は感じた。
そもそも、守光に忠義を尽くしている南郷が、守光を裏切るような行為を積極的に行うとは考えにくい。何もかも、守光に報告していた――いや、守光の命令によるものだったのかもしれない。
急に空恐ろしさを感じ、着物の下でざっと肌が粟立つ。和彦は足を止め、先を歩く二人の男の背をじっと見つめる。なるべく考えないようにしていたが、いよいよ現実を真正面から受け止めるときがきたのだ。
和彦がそうすることを、〈オモチャ遊び〉を仄めかした守光は望んでいるのだろう。
自分から切り出すべきか、切り出されるのを待つべきか。立ち止まったまま逡巡する和彦を、守光と南郷が同じタイミングで振り返る。
「どうかしたかね、先生。もしかしてさっき、足を痛めたんじゃ……」
「いえ、なんでもありません」
二人の元に歩み寄ると、守光がさりげなく南郷に目配せをする。意図を察したように南郷は頷いた。一体何事かと困惑する和彦に、守光は前方を指さした。
「もう少し歩こうか」
和彦が守光と肩を並べて歩き出しても、南郷はその場に立ち止まったまま動かなかった。ちらりと背後を振り返った和彦に、かまわず守光が話しかけてくる。
「――病院のベッドでただ横になっている間、反省したことがある。あんたに対して、言葉が足らなかったと」
和彦は、すぐには心当たりが思い浮かばなかった。わずかに首を傾げると、守光は唇の端に薄い笑みを刻む。
「新しいクリニックの開業についてだ」
あっ、と声を洩らした和彦は、反射的に守光の顔をうかがい見ていた。先日、そろそろ結論を出してほしいと言われていたが、医者としての自信を失いかけ、そこからどうにか立ち直ったところに、守光が倒れたという知らせを受けて総和会本部に詰めたりと、とてもではないが大きな選択ができる余裕はなかった。
そう説明することが言い訳がましく思え、和彦は口ごもる。守光は機嫌を損ねた様子はなく、ゆったりとした足取りで歩きながら続けた。
「先日は、あんたに綺麗事を言いすぎた」
「……ぼくは、組織が個人に対して示せる〈誠意〉だと……」
「組織の形式のために、特別な医者であるあんたが必要だとも言った」
守光に言われた内容は覚えている。完璧な医者であることは求めていないとも言われたのだ。ずいぶん明け透けな話をされたと感じたが、あれでも守光にとっては綺麗事になるらしい。
一体、さらに何を言われるのかと、和彦は身構える。
「言ったことにウソはない。医者としてのあんたに期待している。ただ、総和会会長として、あんたに任せるクリニックには、別の面でも期待している」
「別の面、ですか」
「総和会が出資したクリニックができることで、新たな金の流れができる」
すぐには意味が理解できなかった和彦は、ただ守光の顔を見つめる。
「美容クリニックがどういうものか、あんたが持つ知識には到底及ばないだろうが、わしも簡単ながら説明を受けた。――扱っている高価な医療機器や薬剤などを、海外から購入することも多いそうだが」
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