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第31話
(20)
しおりを挟むパシャッと水音を立て、池で泳ぐ魚が跳ねた。鯉だろうかと、思わず身を乗り出しかけた和彦に、笑いながら守光が言う。
「フナだよ。この池は釣りが禁止されているから、魚がよく肥えて育っている。跳ねたフナは、立派な大きさだったよ」
「……あまり、詳しくなくて。池にいるといえば、鯉ぐらいしか思いつかないんです」
子供のような反応を見せたことに恥じ入りながら、和彦は小声で応じる。このとき風が吹き、紗の羽織をさらりと撫でていく。陽射しの強い夏の日に、羽織を着ての外出は暑くてたまらないのではないかと心配していたが、まだ着慣れない着物姿であるということを抜きにして、意外なほど着心地はいい。
守光が贈ってくれたのは、暑い時期に着るのだという紗という生地の着物と、羽織だった。着物は黒だが、透けて見えるほど薄い生地のためか重苦しい感じはない。着物の下に身につけた麻の長襦袢が、思いのほか肌触りがいいおかげでもある。和彦が特に気に入ったのは、淡い藤色の羽織だった。わずかに灰色が混じってはいるが華やかで、とにかく涼しげで美しい色合いなのだ。
いきなり着物一揃いを贈られて、目を白黒させる和彦に、共に着物を着て散歩に行こうと守光が言い出したときは、一体何事かと思った。吾川に手伝ってもらいながら着物を着つけ、なんとか車に乗り込んだときには、それだけで疲労感に襲われたが、こうして外の空気に触れていると、それも忘れてしまう。
客間の床の間にかかっている金魚の掛け軸を見て、池のほとりを散歩してみたいなと夢想していたが、今、守光とともに歩いているのは、まさに大きな池のほとりだった。
寺の敷地内にある池で、深緑の水を湛えており、木々の間から差し込む陽射しを受けて、神秘的な雰囲気を醸している。こういうところなら、ヌシともいえる生き物が棲みついていても不思議ではないなと、つい子供じみた想像をしてしまう。
静かなところだった。土曜日だからといって人が多く訪れるような場所ではないようで、この池にたどり着くまでの間、年配の婦人一人とすれ違っただけだ。散歩と言って連れ出された和彦としては戸惑うしかないのだが、連れ出した当人である守光にはしっかり目的があったようだ。
寺に着いてから、和彦に少しの間待つよう言って、連絡を受けていた様子の住職に伴われ、本堂へと入っていった。
ほんの数分ほどで守光は出てきたが、一体本堂で何をしていたか教えてはくれなかった。和彦も、あえて尋ねはしなかった。池に行くまでの道には、数えきれないほどの小さな地蔵が並んでおり、その姿を眺めていると、寺を訪れる人たちの事情はさまざまなのだと、漠然と思ったからだ。
総和会会長という肩書きを持っている守光も、さすがに寺の敷地内で己の存在を誇示するつもりはないようだ。寺の駐車場に仰々しい護衛の男たちを待たせ、和彦と、もう一人の男だけを伴っていた。
フナ以外の魚が泳いでいるかもしれないと、どうしても気になって池を覗き込んでいた和彦は、乱れた髪を何げなく掻き上げる。
「――着物がよく似合っている」
ふいに言われた言葉が自分に向けられたものだと気づくのに、数秒の時間が必要だった。和彦はハッとして隣を見る。守光は池ではなく、和彦を見て目を細めていた。
「覚えていてくださったのですね。前に、ぼくに着物を仕立てるとおっしゃっていたことを」
「平日は、あんたは仕事があるからそうもいかんだろうが、休みの日には、わしと一緒にいる間は、ちょっとした外出でも、こうして着物を着るといい」
和彦の脳裏に蘇ったのは、ほんの二日ほど前に守光から、手紙を書く習慣を身につけるよう言われたことだった。そして今の発言だ。総和会会長のオンナとしてこうあってほしいという要求なのだ。
表情を変えたつもりはないが、守光が微苦笑を浮かべる。
「そう、堅苦しく考えなくてもかまわんよ。わしがただ、あんたの着物姿をもっとみたいだけだ。それでなくても物腰が丁寧なあんただ。着物を着ていると、所作がもっと美しく見えるだろうと思ってな」
「……まだまだ着慣れなくて、歩き方もぎこちないですし、恥ずかしいです」
「それはそれで、見ているほうは頬が緩む」
守光がまた歩き出したので、最後に池を一瞥した和彦はついて行く。なんとなく気後れして、守光の斜め後ろを歩きたくなるのだが、守光はそれを許さない。和彦が隣にくるまで立ち止まるのだ。
守光の様子をうかがいながら、石垣に沿うようにして咲いている紫陽花にも目を向ける。すでにもう見ごろを過ぎ、梅雨時は鮮やかな青さで景色を彩っていたであろう紫陽花は、ところどころ枯れかかっていた。
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