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第31話
(8)
しおりを挟む昼間飲んだ鎮痛剤が切れたのか、ふいにズキリと頭が痛む。疲れと眠気の両方から、後部座席のシートにぐったりと身を預けていた和彦は、沈鬱なため息をついた。
自宅マンションに帰り着いたら、さっさと鎮痛剤を口に放り込み、ベッドに潜り込みたかった。少し休まないと、思考が正常に働きそうにない。
さらに深くシートにもたれかかろうとした和彦だが、車が本来曲がるはずの道をまっすぐ進んだことで、目を見開く。まさか、と思って口を開きかけた瞬間、間が悪いことに携帯電話が鳴った。反射的にジャケットのポケットに手を突っ込もうとして、携帯電話の着信音が違うことに気づく。
微妙な表情となって和彦は動きを止める。ハンドルを握る男が、バックミラー越しにこちらを一瞥した。早く出ろと急かすように鳴り続ける着信音に我慢できず、仕方なくアタッシェケースを開け、もう一台の携帯電話を取り出す。里見との連絡に使っているものだ。
表示されているのは、里見の携帯電話とは別の番号だった。
『感心だな。番号を替えなかったのか』
電話に出ると、前置きもなしに皮肉に満ちた口調で言われた。ここでまた頭が痛み、和彦はなんとなく理解した。朝から悩まされていた頭痛は、確かに悪い前触れだったのだ。
総和会の車に乗っている最中に、英俊から電話がかかってきたのだ。組み合わせとしては、最悪だ。
「替えたところで、里見さんに迷惑がかかるだけだと思ったからね。だけど、こうして声を聞くと、やっぱり替えておけばよかった」
『プリペイド携帯だと、いくらでも替えがきくだろ。――携帯の番号から、少しは何かわかるかと期待したこともあったんだがな。お前にあれこれアドバイスしている人間は、慎重だ』
そんなことまでしていたのかと和彦は絶句すると、気配から察したのか、楽しげに囁くような声で英俊が言った。
『――お前、自分の父親が、どの省庁で権力を振るっているのか、忘れたわけじゃないだろ。今は、わたしがお前を追っている。しかしわたしも、暇ではないんだ。いい加減、厄介事を片付けたいと思っている』
「つまり、これまでは本気でなかったと言いたいのか」
『兄弟で平和的な話し合いがケリがつくなら、そのほうがいいだろう。しかしお前は、そのつもりがないようだった』
和彦は眉をひそめると、自分の喉元に手をやっていた。いまだに、英俊に首を絞められかけた感触が残っているのだ。
『手段を変える。里見さんはあまりにお前に肩入れしすぎていて、少々信頼感に欠ける。里見さんを餌に、お前をおびき寄せる手段も、もう使えないだろうしな』
「よく……、そんな言い方ができる。あの人は、兄さんにとってかつての上司で、今も仕事でつき合いがあるんだろ。それに、父さんにとっても、かつて目をかけていた部下だ」
『父さんにとって、何より信用できるのは、血の繋がりということだ。どれだけ子飼いの部下がいて、強い影響力を持って多数の人間を動かせたところで、信用しているのは、家族だ。……お前ですら』
吐き出すように言われた英俊の最後の言葉が、毒のしずくとなって和彦の鼓膜へと染みていく。英俊は、ただ、思うように物事が進まない苛立ちを、和彦にぶつけるために電話をかけてきたわけではない。これは英俊なりの、暗い呪詛を含んだ宣言だ。
和彦を絶対に捕えるという。
悪寒に大きく身震いした拍子に、和彦は顔を上げる。いつの間にか車は、朝通ってきた道路の反対側を走っていた。つまり、向かう先は――。
「あのっ――」
運転手に話しかけようとしたが、まだ電話を切っていないことを思い出す。どうしようかと迷ったのは数秒で、車から飛び降りるわけにもいかない和彦は、結局シートに身を預け直した。
脈打つように頭が痛み、英俊と話すことが猛烈なストレスになっていることを実感する。
「この間も言ったけど、ぼくは家の事情に関わるつもりはないし、邪魔をするつもりはない」
どうせ訴えたところで、英俊は聞き入れるつもりはないだろう。すでにもう徒労感に襲われた和彦は、昨夜守光と交わした会話を思い出していた。権力を振るうというなら、守光もまた、同じだ。多数の人間を思うように動かせるが、その影響力は俊哉とは違い、どす黒い凶悪さを伴っている。つまり、いざとなれば手段を選ばないということだ。
和彦は、守光の影響力の下にいる。頭痛のせいで意志が弱くなり、その力に一瞬だけ身を委ねてしまった。
「――……ぼくはもう、とっくに成人だ。自分で自分の人生を取捨選択できる。何もかも従うしかなかった子供の頃とは違う」
『何が言いたい』
「佐伯の姓を捨てるというのは、どうかな。……一番手っ取り早い、抵抗の仕方だよ。そして多分、佐伯家にとって、痛烈な抵抗となる」
『お前……』
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