血と束縛と

北川とも

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第31話

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 翌朝、病院に向かう守光を見送った和彦は、慌しく出勤の準備を整える。
 長嶺の本宅から出勤することは、すでにもう珍しくもなく、図々しい話だが、もう一つの自宅のような感覚さえある。だがさすがに、総和会本部からの出勤となると、勝手がまったく違う。
 一挙手一投足を観察されているようでもあるし、主がいなくなった住居を、自分が自由に使える状況にあるというのも、なんだか居心地が悪い。そもそもこの特権は、和彦が守光のオンナであることで、得られているのだ。
 いまさら、他人からどう思われようが、気にかける時期は過ぎているのであろうが――。
 アタッシェケースを持って玄関を出た和彦を出迎えてくれたのは、守光の身の回りの世話をしている男だった。守光に同行するのかと思っていたが、あくまで男の仕事は、守光の住居空間を守ることにあり、この建物を一歩出てからのことは、護衛担当の者たちに任せるのだそうだ。
「そうはいっても、病院は完全看護なので、護衛ができることは病院の外を張って、人の出入りを確認するだけです。検査の間は、千尋さんが付き添ってくださるそうですが」
 エレベーターに乗り込みながらそう説明を受けた和彦は、総和会だけではなく、長嶺組も大変だなと思う。総和会にとっては会長である守光が、長嶺組にとっては跡目である千尋が気がかりだろう。この二人がともに行動するとなれば、普段であれば大勢の護衛が周囲を囲むのに、病院では二人だけなのだ。しかも夜は、守光は一人で病室で過ごすことになる。
「それは心配ですね……」
「長嶺会長の代になってから、総和会という組織そのものは融和を謳って、対外的には穏やかな姿勢を取っています。そのおかげで、敵対行動を取られることはずいぶん減りました。ただ、総和会を今の形に作り上げるために、長嶺会長自らは、厳しい姿勢を見せることがありました。我々が危惧しているのは、組織の外よりも――」
 男はここで言葉を呑み込む。しかし和彦は、続きの言葉を察することはできた。これまで、守光本人だけではなく、賢吾や千尋もそれとなく匂わせてきたことだ。
「今、長嶺会長に何かあれば、総和会内は荒れます。そうなったとき、わが身と組織は安全であると言い切れる者は、誰もいないでしょう。それを承知で行動を起こす者がいるとは思いません。護衛をつけるのも、念のためです。佐伯先生も委縮されないよう、普段通りの生活を送ってください。快適に過ごしていただけるよう、そのためのサポートは惜しみませんから」
 男の物言いにわずかな違和感を覚え、和彦は首を傾げる。自分は一体何に引っかかったのだろうかと考えようとしたが、開いたエレベーターの扉を押さえて男がこちらを見る。
「先生、一階です」
「はいっ……」
 エントランスホールに向かおうとした和彦だが、やはりさきほどの言葉が気になり、男を振り返る。
「あの、さっき――」
「いまさらですが、きちんとした自己紹介はまだでしたね。わたしのことは、吾川あがわとお呼びください。この建物で滞在いただく限り、長嶺会長だけではなく、佐伯先生のお世話もさせていただきます。遠慮なく、ご用を申しつけください。長嶺会長にも、重々言われておりますので」
 和彦は、複雑な表情となるのを抑えられなかった。吾川と名乗った男は、守光の生活全般の世話を担当しているだけあって、四階の住居スペースに自由に出入りしている。守光が呼ぶまでもなく、いつの間にかそこにいて、必要なことを行い、静かに立ち去るのだ。当然、これまでも和彦は、この吾川には世話になってはいた。守光の〈オンナ〉として。
 佐伯和彦という個人として認識はされていないのだろうなと、心の中では思っていたのだが、こうして名乗られたことで、その認識を改める瞬間が来たと感じた。和彦もまた、守光の世話をしている年配の柔らかな物腰の男を、吾川という個人として認識した。
 些細なことだが、総和会にまた深入りしたと実感するのだ。
「……吾川さん、今日はぼくは、クリニックからまっすぐマンションに帰ります。明日の夕方、ここに立ち寄る予定ですが、そのときはよろしくお願いします」
 和彦の言葉に、吾川は返事の代わりか、頭を下げる。いってきますと声をかけ、和彦は自動ドアを通った。
 アプローチにはすでに車が待機しており、和彦が姿を現すと、車の傍らに立っていた男が後部座席のドアを開けた。長嶺組の車に対しては、こんなことをしなくていいと気軽に要求できるのだが、ここが総和会本部ということもあり、何も言えない。

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