血と束縛と

北川とも

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第30話

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「先生は大変でしょうが、わたしらとしては心強いですよ。うちの組の中で、医者の手が必要だっていうときに、先生がすぐに来てくれるのは。しかも、組長や千尋さんが信頼している先生だ。わたしが守っているのは、ほとんどこの家の台所ぐらいのもので、偉そうなことは言えないですが、それでも、こうしてきれいに傷口を縫ってもらっているのを見ると、やっぱり先生は大した人なんだと思いますよ」
 笠野の言葉を聞いていると、自分は気負いすぎているのだろうかと、和彦は考えてしまう。任される仕事すべてを完璧に、相手の満足のいくようにこなすのは、ほぼ不可能なのだ。命に関わる仕事である以上、最善を尽くすのは当たり前だが、その先に、望む結果ばかりがあるとは限らない。
 非情にはなりたくないし、なれるとも思えない。しかし、理解はすべきなのだろう。状況によっては、自分ができること、できないことの境界線を引く必要があると。
 結果として患者を見捨て、自己嫌悪に苛まれることになっても、立ち直るしかない。そうしなければ、和彦自身がこの世界から見捨てられる。
 和彦は口元に苦い笑みを刻みながら、自嘲気味に呟いた。
「経験不足の若い医者を、こんなにありがたがってくれるなら、がんばらないとな……」
 笠野の傷口の縫合を済ませて、ガーゼを当てて包帯を巻く。
「わかっていると思うが、傷は深くないとはいえ、塞がるまで無茶はするなよ。スッパリ切れていたんだから」
「なんだか大ごとですね」
 笠野が、包帯を巻いた手を眺めて目を細める。つい和彦は表情を和らげていた。
「本宅の台所を仕切っている重要人物だからな。包帯も分厚めに巻いておいた」
 声を上げて笑った笠野が、キッチンへと視線を向ける。広いキッチンには男三人が立っており、それぞれ夕食の準備をしていた。
「先生、晩メシを食っていってください。下ごしらえはわたしが済ませてあったので、あとは若い者がやってくれています。こういうことがあると、日ごろから、他の者に仕事を手伝わせておいてよかったと思いますよ。何もかも、自分一人でこなすなんて無理ですから」
 テーブルの上を片付ける和彦の耳に、笠野の言葉が教訓めいて聞こえる。
「ああ、ありがとう」
「でしたら、組長の部屋に運びましょうか。まだ準備ができるまで時間がかかりますから、その間に風呂に入ってもらって――」
「いやっ、ここで食べるからっ」
「――なんだ。俺の面を見ながら、メシは食いたくないか、先生?」
 揶揄するような響きを帯びたバリトンが、前触れもなくダイニングに響く。キッチンで慌しく立ち働いていた組員たちが一斉に手を止めて挨拶をし、笠野も立ち上がって頭を下げる。
 和彦は動揺を押し隠しつつ、ニヤニヤと笑っている賢吾を睨みつけた。
「組長が立ち聞きか」
「仕事をしている先生の姿を拝みたくてな。そのついでに、会話も聞こえた」
 賢吾が軽くあごをしゃくり、和彦は仕方なく立ち上がる。ダイニングを出て、途中洗面所に立ち寄って手を洗うと、賢吾のあとをついて歩きながら、声音を抑えて詰った。
「笠野さんに、ぼくに来てほしいと連絡させたのは、あんただろ」
「連絡しろと命令はしていない。ただ、先生に手当てしてもらったらどうだと、提案はしてみた」
「……そんなこと言われたら、誰もあんたに逆らえないんじゃないか」
「まあ、そうかもな」
 悪びれもせず答えた賢吾の背を見つめていた和彦だが、ふっと笑みをこぼしていた。こうして会話を交わしていて、一体自分は何を身構えていたのだろうかと思えてきたのだ。
 肩越しに振り返った賢吾も、和彦の顔を見て唇の端に笑みを刻む。慌てて表情を取り繕おうとしたが、遅かった。
「機嫌は直ったようだな」
「別に……、最初から悪かったわけじゃない」
「そうか?」
 和彦は逡巡したあと、思いきって切り出した。
「――……食事のあと、相談したいことがある」
「鷹津のことか」
 ああ、と答えたが、賢吾から返事はなかった。
 怒らせてしまっただろうかと、和彦は内心怯えながら、賢吾の部屋に入る。
 障子を閉めて二人きりになった途端、賢吾がこちらに片手を伸ばしてくる。咄嗟に逃れようとしたが、有無を言わせない手つきで腕を掴まれると、もう抵抗ができない。引き寄せられ、賢吾の腕の中に閉じ込められた。
「久しぶりの先生の感触だ……」
 柔らかな声で耳元に囁かれ、和彦の体はカッと熱くなる。
「大げさだ。そう何日も経っていないだろ」
「俺はできることなら、毎日でも先生に触れていたいが」
「なっ……」
 言い返そうとしたが、それがどれだけ無駄であるか、これまでの経験で痛感している。和彦はおとなしく賢吾に身を任せた。
 不思議なもので、賢吾に対する苛立ちや恐れが、賢吾の腕の中にいることで、スウッと消えていくようだった。
 理屈を抜きにして、怖い大蛇の側は心地がいい。
「今夜は泊まっていけ、――和彦」
「……嫌とは言わせない気だろ」
「言う気なのか?」
 賢吾らしい切り返しに、もう笑うしかない。和彦が肩を震わせると、賢吾が顔を覗き込んでくる。そのまま唇を塞がれそうになったが、寸前で電話が鳴った。
 体を離した賢吾が子機を取り上げて話し始めた光景を、和彦はぼんやりと眺める。
 何か起こったのだと悟ったのは、賢吾が二言、三言話したあとだった。珍しく、賢吾の横顔に緊張らしきものが走り、次に動揺が、そしてあっという間に険しい表情へと変わる。
 一心に話を聞いている様子だったが、ふいに賢吾がこちらを見た。
「ああ……、先生ならちょうど、ここにいる。一緒に向かおう」
 そう告げて賢吾が電話を切る。このときすでに不穏なものを感じ取っていた和彦の心臓の鼓動は、痛いほど速くなっていた。
 和彦から問いかける前に、賢吾が口を開いた。
「――オヤジが、倒れたそうだ」

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