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第30話
(21)
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普段は車では通らない道をあえて選んで、ゆっくりと歩きながら、辺りを見回す。基本的に、和彦がマンションの周囲を歩くときは、せいぜいがコンビニに出かけるぐらいなのだ。そのため、ここで暮らし始めて一年ほどになるというのに、いまだに地理には疎い。
詳しくなったところで、いつまでここにいられるかわからないが――。
無意識に、そんな自虐的なことを考えた和彦は、小さく身震いする。この瞬間、ひどく不吉なものが自分の中を駆け抜けた気がしたのだ。
わずかに歩調を速めて歩いていると、細い脇道に気づく。きれいにレンガが敷き詰められた道で、なんとなく興味を引かれた。まさか、こんなところで迷子になったりはしないだろうと思いながら、誘われるようにその道に入る。
最初は、コンクリートの壁に左右を挟まれた、おもしろ味のない道だと感じていたが、数分も歩くと様子が変わった。
和彦は、差していた傘をくるんと回す。青の色合いが鮮やかな紫陽花が、レンガ道の傍らを彩っていた。降り続ける雨を受け、風情が増している。
人が通りかからないのをいいことに、和彦はしばらくその場に立ち尽くし、紫陽花に見入っていた。車のエンジン音すら届かない場所に、雨音と、雨粒が傘にぶつかる音だけが響き、それが耳に心地いい。錯覚なのかもしれないが、ここのところ胸の奥にこびりついている重苦しい感情が、少しだけ洗われていくようだ。
ふと、感じるものがあった和彦は、わずかに傘を動かす。いつの間にか背後に、誰かが立っていた。スラックスを穿いた足元しか見えないが、それだけで和彦には十分だ。
唇を引き結びはしたものの、黙ってはいられず、結局口を開いた。
「――……組長に、放っておいてくれって言っておいたのに……」
「そうなのか。俺は何も言われなかった」
雨音に慣れた耳に、深みのあるハスキーな声がしっとりと馴染む。和彦は、隣にやってきた声の主をちらりと見た。三田村は、紫陽花になど興味ないとばかりに、まっすぐ和彦を見つめ返してきた。その眼差しを受けただけで、頬が熱を持つ。
「護衛の人間に頼んでおいたんだ。先生の行動で気になることがあったら、連絡してほしいと」
「気になるって……、散歩に行くとしか言わなかったぞ、ぼくは」
「だけど、気になったんだろうな」
「そんな連絡をもらって、若頭補佐は慌てて駆けつけたのか」
「今日はたまたま休みだった」
それがウソか本当かは、和彦にはわからない。三田村がスーツ姿なのはいつものことなのだ。ただ、連絡を受けてから、和彦を見つけ出すまで、三田村がどれだけ苦労したかは、ずぶ濡れになっているスラックスや靴を見れば、容易に想像できる。
「……嫌なんだ。あんたは忙しいのに、ぼくのどうでもいいわがままで、駆けつけるなんて」
足元に視線を落として和彦が洩らすと、三田村は笑いを含んだ声で応じる。
「先生にわがままを言われた記憶なんて、俺にはない。それに今日は、俺が勝手に追いかけてきたんだ。……本当は見つけても、黙って後ろから見守るつもりだったんだが、先生の後ろ姿を見ていたら、側にいたくてたまらなくなった」
「そんなに危うく見えたか?」
「そういうことじゃなく……、ただ、先生に触れたくなったんだ」
視線を上げた和彦は、三田村の横顔を見つめる。誠実で優しい男は、和彦を裏の世界に留めておくための鎖だ。幾重もの事情で雁字搦めになっている和彦だが、堅固で太い鎖なのは、三田村だけなのだ。和彦を留めながら、守り、癒してくれる。
こんな男が身近にいながら、鷹津という〈番犬〉と距離を置くよう仄めかされただけで動揺したことは、裏切りになるのだろうか――。
「思い詰めた顔をしている」
紫陽花を見ていると思っていた三田村に、ふいに指摘される。和彦は自分の顔を軽く撫でてから、苦笑を洩らした。
「よく寝たつもりなんだが……」
「先生を悩ませていることについては、組長から聞いている。患者が目の前で死んだことと、新しいクリニックについて会長から返事を急かされたこと。そして――鷹津のこと」
和彦は、ゆっくりと傘を回す。否定するつもりはなかったし、言い繕うつもりもなかった。自分との関係のために、命と面子をかけてくれている三田村に報いるのは、誠実さしかない。
「……組長は、気づいている。ぼくと鷹津が――……」
「情を交わした」
自分と鷹津の間に起こったことを、どう表現すればいいのだろうかと思っていた和彦だが、三田村の表現は驚くほど違和感がなかった。長嶺の男たちだけではなく、三田村ともそうしているように、和彦は、鷹津と『情を交わした』のだ。
目を丸くした和彦に、三田村は淡い笑みを向けてくる。
詳しくなったところで、いつまでここにいられるかわからないが――。
無意識に、そんな自虐的なことを考えた和彦は、小さく身震いする。この瞬間、ひどく不吉なものが自分の中を駆け抜けた気がしたのだ。
わずかに歩調を速めて歩いていると、細い脇道に気づく。きれいにレンガが敷き詰められた道で、なんとなく興味を引かれた。まさか、こんなところで迷子になったりはしないだろうと思いながら、誘われるようにその道に入る。
最初は、コンクリートの壁に左右を挟まれた、おもしろ味のない道だと感じていたが、数分も歩くと様子が変わった。
和彦は、差していた傘をくるんと回す。青の色合いが鮮やかな紫陽花が、レンガ道の傍らを彩っていた。降り続ける雨を受け、風情が増している。
人が通りかからないのをいいことに、和彦はしばらくその場に立ち尽くし、紫陽花に見入っていた。車のエンジン音すら届かない場所に、雨音と、雨粒が傘にぶつかる音だけが響き、それが耳に心地いい。錯覚なのかもしれないが、ここのところ胸の奥にこびりついている重苦しい感情が、少しだけ洗われていくようだ。
ふと、感じるものがあった和彦は、わずかに傘を動かす。いつの間にか背後に、誰かが立っていた。スラックスを穿いた足元しか見えないが、それだけで和彦には十分だ。
唇を引き結びはしたものの、黙ってはいられず、結局口を開いた。
「――……組長に、放っておいてくれって言っておいたのに……」
「そうなのか。俺は何も言われなかった」
雨音に慣れた耳に、深みのあるハスキーな声がしっとりと馴染む。和彦は、隣にやってきた声の主をちらりと見た。三田村は、紫陽花になど興味ないとばかりに、まっすぐ和彦を見つめ返してきた。その眼差しを受けただけで、頬が熱を持つ。
「護衛の人間に頼んでおいたんだ。先生の行動で気になることがあったら、連絡してほしいと」
「気になるって……、散歩に行くとしか言わなかったぞ、ぼくは」
「だけど、気になったんだろうな」
「そんな連絡をもらって、若頭補佐は慌てて駆けつけたのか」
「今日はたまたま休みだった」
それがウソか本当かは、和彦にはわからない。三田村がスーツ姿なのはいつものことなのだ。ただ、連絡を受けてから、和彦を見つけ出すまで、三田村がどれだけ苦労したかは、ずぶ濡れになっているスラックスや靴を見れば、容易に想像できる。
「……嫌なんだ。あんたは忙しいのに、ぼくのどうでもいいわがままで、駆けつけるなんて」
足元に視線を落として和彦が洩らすと、三田村は笑いを含んだ声で応じる。
「先生にわがままを言われた記憶なんて、俺にはない。それに今日は、俺が勝手に追いかけてきたんだ。……本当は見つけても、黙って後ろから見守るつもりだったんだが、先生の後ろ姿を見ていたら、側にいたくてたまらなくなった」
「そんなに危うく見えたか?」
「そういうことじゃなく……、ただ、先生に触れたくなったんだ」
視線を上げた和彦は、三田村の横顔を見つめる。誠実で優しい男は、和彦を裏の世界に留めておくための鎖だ。幾重もの事情で雁字搦めになっている和彦だが、堅固で太い鎖なのは、三田村だけなのだ。和彦を留めながら、守り、癒してくれる。
こんな男が身近にいながら、鷹津という〈番犬〉と距離を置くよう仄めかされただけで動揺したことは、裏切りになるのだろうか――。
「思い詰めた顔をしている」
紫陽花を見ていると思っていた三田村に、ふいに指摘される。和彦は自分の顔を軽く撫でてから、苦笑を洩らした。
「よく寝たつもりなんだが……」
「先生を悩ませていることについては、組長から聞いている。患者が目の前で死んだことと、新しいクリニックについて会長から返事を急かされたこと。そして――鷹津のこと」
和彦は、ゆっくりと傘を回す。否定するつもりはなかったし、言い繕うつもりもなかった。自分との関係のために、命と面子をかけてくれている三田村に報いるのは、誠実さしかない。
「……組長は、気づいている。ぼくと鷹津が――……」
「情を交わした」
自分と鷹津の間に起こったことを、どう表現すればいいのだろうかと思っていた和彦だが、三田村の表現は驚くほど違和感がなかった。長嶺の男たちだけではなく、三田村ともそうしているように、和彦は、鷹津と『情を交わした』のだ。
目を丸くした和彦に、三田村は淡い笑みを向けてくる。
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