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第30話
(20)
しおりを挟む何日ぶりかに自宅マンションに戻った和彦は、バッグを運んできてくれた組員が帰るのを見届けてから、ゆっくりと肩から力を抜く。
自分以外の気配がないことを確認して、やっと一人になれたのだと思った。
和彦はジャケットを脱ぐと、とりあえずバッグをクローゼットに押し込む。着替えを仕舞うのは、何も今しなくてはならない仕事ではない。
キッチンでオレンジジュースを飲んでから、携帯電話を片手に寝室へと向かう。夜景を眺める気力もなく、素早くカーテンを閉めると、和彦は身を投げ出すようにしてベッドに横になった。
持て余すほど広いベッドで手足を伸ばしてから、ほっと息を吐き出す。さっさと入浴を済ませてしまおうと思いながらも、どうせ自分一人なのだから、どう時間を使おうが自由だとも思ってしまう。
「……本当に、静かだ……」
本宅での、絶えず人の気配が感じられた空間を思い返して、和彦はぽつりと呟く。自覚もないまま、他人と同じ部屋で過ごすことに馴染んでいたらしく、こうして一人でいることに多少の違和感があった。
もっともこの感覚は、すぐに消えてしまうのだろうが――。
枕元に放り出した携帯電話が鳴る。どうやら、和彦を送り届けた組員が、本宅への報告を終えたようだ。
和彦は、相手が誰かわかったうえで電話に出た。
「――ぼくが、すぐに部屋を抜け出すとでも思ったのか?」
前置きもなしに淡々とした声で告げると、電話の相手が微かに笑った気配が伝わってきた。
『そう、ツンツンするな、先生。この何日か、先生とまともに会話を交わしていなかったから、こうして電話をかけたんだ。顔を合わせていなければ、多少は言いたいことが言えるだろう』
「別に……、言いたいことはない。こうしてマンションに戻ってきたし、あんたはそれを引き留めなかった。だから、何も……」
『話しかけるなと言わんばかりの、不機嫌そうな顔をしていたんだ。そんな先生に、本宅で生活を続けろなんて無体は言えねーな』
怒っているのか、と賢吾に問われ、和彦はすぐには返事ができなかった。賢吾が何を言おうとしているのか、わかってはいるのだ。だからこそ、言葉に慎重にならざるをえない。
大蛇の化身のような恐ろしい男の口から、和彦と鷹津の接近に嫉妬していると告げられたのは、驚きだった。あくまで賢吾の口調は冗談交じりではあったものの、だからこそそこに、本心を覆い隠そうとしている意図を感じ取ったのだ。
そしてもう一つ、和彦が衝撃的だったのは、鷹津と距離を置くべきだとほのめかされ、自分がひどく動揺したことだった。賢吾は、そんな和彦の胸の内を見透かしている。
電話越しに会話を交わしながらも、まるで試されているようだった。耐えきれなくなった和彦は、言葉を絞り出して言った。
「しばらく、ぼくを放っておいてくれっ……」
『それで、状況が変わるか?』
賢吾の冷静な指摘に、一瞬にして感情的になった和彦は、乱暴に電話を切る。
確かに、顔を合わせて話さなくて正解だっただろう。もし、目の前に賢吾がいたとしたら、問題を何一つ自分で解決できない苛立ちを、みっともなくぶつけていたはずだ。
そんな和彦を、賢吾は余裕たっぷりに受け止めてくれるであろうが。
日曜日の朝、目を覚ました和彦は、ぼうっと天井を見上げてから、緩慢な動作でヘッドボードへと手を伸ばす。時計を取り上げて時間を確認してみると、普段と変わらない起床時間だ。今日は何も予定がないからと、ゆっくりと寝るつもりで目覚ましをセットしていなかったが、意味はなかったようだ。
目覚めは悪くなく、あっという間に眠気は霧散してしまい、これから仕事にでも出かけられそうなほど、頭の中は明瞭としている。
まっさきに考えたのは、今日は何をして過ごそうかということだった。休日を一人で過ごすのは久しぶりな気がして、勝手がわからない。
和彦はベッドから抜け出すと、カーテンを開ける。肌にまとわりつく空気の感覚から、薄々察してはいたが、外は雨が降っていた。
朝食を食べて新聞を読み終え、特に興味もなくテレビのチャンネルをあちこち替えてしまうと、もうやることがなくなってしまう。いや、正確には、片付けるべき仕事はあるのだ。ただ、やる気がしない。
自分で淹れたコーヒーをさんざん堪能した和彦は、ふと思い立って立ち上がる。
手早く後片付けを済ませると、部屋の鍵を持ってダイニングを出ようとしたが、後ろ髪を引かれて一旦立ち止まったあと、テーブルへと戻る。携帯電話で護衛の組員に連絡を取り、近所に散歩に出かけると告げておいた。
傘を持ってマンションの外に出たものの、和彦にはあてがあるわけではない。こんな雨の中、歩いていける場所などたかが知れている。
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