701 / 1,268
第30話
(19)
しおりを挟む
「先生は、王様のように振る舞ってください。なんといっても、わたしの友人でもあるし、命の恩人でもありますから。それにこの間は、わたしの事情で迷惑をかけてしまいましたしね」
ソファに腰掛けた和彦は淡い笑みで返し、斜め向かいに座った秦に水割りを作ってもらう。
「――いろいろと大変だったようですね」
和彦がグラスに口をつけるのを待ってから、秦がそう切り出してくる。一人だけ飲むのは気が引けるが、秦が新たなグラスに氷を入れるのを見て、和彦は安心して会話を始める。
「いろいろありすぎた。……一つ片付いたと思ったら、次が。そして、それが片付かないうちに、次、次――」
「先生はいつでも、波瀾万丈だ」
自分の分の水割りを作った秦が、意味ありげな流し目を寄越してくる。
「……他人事のような顔をしているが、ぼくは君のせいで、大変な目に遭ったことがあるんだからな」
「それでも先生は、わたしとこうして会ってくれる。その寛容さが、先生の日常がにぎやかになる原因の一つだと思いますね」
物は言いようだと、苦い顔をした和彦は、ナッツを口に放り込む。すると、すぐ隣に移動してきた秦に片手を取られた。ドキリとした和彦は咄嗟に手を引こうとしたが、予想外の力強さで阻まれる。それ以上の抵抗はできなかった。そんな和彦に対して、秦は満足げに頷く。
「寛容ではなく、甘い、ですね。先生の場合は」
「自覚はあるんだ。それにもう一つ、〈こっち〉の世界に引きずり込まれてから、他人を拒むことが怖くなった。周りは、腹の内が読めなくて、ぼくなんて簡単に押さえ込める怖い男ばかりだ。機嫌を損ねることを、無意識のうちに恐れているんだ」
「でも、先生に対して優しい男ばかりでしょう」
わたしも含めて、とヌケヌケと言えてしまうのが、秦という男だろう。声を上げて笑っていた和彦だが、すぐに真顔に戻ると、ぽつりと洩らす。
「だからこそ、怖い。無条件の優しさなんてないとわかっているんだ。この世界でぼくは使い勝手のいい医者で、オンナだ。もし、男たちの期待を裏切ることになったら――」
賢吾は気軽に、もっと傲慢になれと言うが、それは、物騒な世界で生まれ育ってきた者の理屈だ。和彦が抱えている恐れを本質的に理解することはできないはずだ。
「それは、ご自分を過小評価されていますね。先生ご自身が魅力的なのであって、肩書きはあくまで付随してくる価値なのだと、わたしは思っていますが」
「……こういう場所だからかもしれないが、君に口説かれているような、妙な気分になるんだが」
「なっていただいてかまいませんよ?」
和彦は、秦を軽く睨みつけてから、取られた手を抜き取ってグラスに口をつける。
扉の向こうから、従業員たちの挨拶の声が一斉に上がり始める。どうやら開店と同時に、客たちが訪れたようだ。女性たちの華やかな歓声が合図のように、店の空気が一気に盛り上がったように感じる。
扉一枚を隔てて、真剣な顔で愚痴をこぼしている自分がふいにおかしくなり、和彦は無意識のうちに唇を緩めていた。
「実は自分の人生について考えるのは、苦手だ。医者になるまで、親に命じられるままの進路を選んできたせいで、心のどこかで、自分の人生は自分のものではないと思っていたのかもしれない。……今も、似たようなものなのかもな」
気持ちが塞ぎ込んできている証か、そんな自虐的な言葉が口をついて出る。男たちの求めによって、自分の進むべき道は決められていくという危惧もあった。賢吾と関係を持った時点で、そんなことはわかりきっていたはずなのだが、守光から決断を迫られて、先の見えない道が新たに現れたような心境だ。
和彦がふっとため息をついた瞬間、まるで甘い毒を吹き込むように秦が言った。
「――だったら、逃げ出してみますか。新しい人生へと」
いつもよりアルコールの巡りがよくなっているのか、和彦の思考は少し緩慢になっていた。ゆっくりと瞬きを数回繰り返してから、秦をまじまじと見つめる。
「えっ?」
ここまで穏やかに微笑んでいた艶やかな美貌の男が、表情を一変させる。鮮烈な鋭さが潜んだ眼差しで、じっと和彦の目を覗き込んできた。
「わたしと先生は、似ていますよ。権力のある家に生まれ、抗えないままに進む道を決められて、思いがけない事情によって一見順風満帆な人生が一変する。そして、したたかに生き抜く術を身につけた」
「……そんなふうに言われると、確かに」
「わたしと似ているから、わかるんです。先生はきっと――」
秦の話に危うく引き込まれかけた和彦だが、ホストと客たちの一際盛り上がった声が聞こえてきて、我に返る。秦の眼差しがふっと和らぎ、和彦もソファに座り直してから、簡潔に答えた。
「逃げるなんて、ありえない。……というより、あの男たちから逃げられるとは、思えない」
「まあ、そうでしょうね」
あっさりと秦に肯定され、失笑を洩らした和彦だが、きっと本気ではなかったのだろうと思いつつ、質問をぶつけてみた。
「ぼくを唆そうとしていたが、君は何か考えがあるのか?」
「おや、やっぱり興味がありますか」
賢吾に報告するつもりなのではないかと警戒しながら、和彦はぼそりと答える。
「別に……」
「海外に行く気なら、ツテはありますよ。日本国籍を捨てることになりますが、偽造パスポートを作って――」
秦からちらりと視線を向けられ、和彦は苦笑しつつ首を横に振る。
「そこまででいい。ぼくには、そこまで思い切った行動は取れそうにないから。……君は、何をやっても生きていけそうだな」
「なるべくなら、今の仕事で生きていきたいですけどね」
「どの仕事だ?」
この瞬間、二人は視線を交わし合い、感じるものがあった和彦は、深く尋ねることはやめておいた。誰にでも探られたくないことはあり、秦は特にそれが多いだろう。和彦にですら、あるぐらいだ。
秦が水割りを作り直し、グラスを手渡される。忙しい秦をあまりつき合わせても悪いと思い、和彦は勢いよく呷る。すでに自宅マンションに戻っているため、いくら酔ったところで、長嶺の男たちの目を気にしなくてもいいのだ。
「――……酔いが覚めたあと、事態がもう少し簡単になっていればいいのにな」
我ながら子供じみた妄想を呟くと、秦は笑うでもなく、抑えた声でこう応じた。
「先生が本気で逃げ出したいというときは、相談に乗りますよ」
「ぼくが本気で言い出すはずがないと思っているだろ」
さあ、と洩らして、秦は楽しげに笑った。
ソファに腰掛けた和彦は淡い笑みで返し、斜め向かいに座った秦に水割りを作ってもらう。
「――いろいろと大変だったようですね」
和彦がグラスに口をつけるのを待ってから、秦がそう切り出してくる。一人だけ飲むのは気が引けるが、秦が新たなグラスに氷を入れるのを見て、和彦は安心して会話を始める。
「いろいろありすぎた。……一つ片付いたと思ったら、次が。そして、それが片付かないうちに、次、次――」
「先生はいつでも、波瀾万丈だ」
自分の分の水割りを作った秦が、意味ありげな流し目を寄越してくる。
「……他人事のような顔をしているが、ぼくは君のせいで、大変な目に遭ったことがあるんだからな」
「それでも先生は、わたしとこうして会ってくれる。その寛容さが、先生の日常がにぎやかになる原因の一つだと思いますね」
物は言いようだと、苦い顔をした和彦は、ナッツを口に放り込む。すると、すぐ隣に移動してきた秦に片手を取られた。ドキリとした和彦は咄嗟に手を引こうとしたが、予想外の力強さで阻まれる。それ以上の抵抗はできなかった。そんな和彦に対して、秦は満足げに頷く。
「寛容ではなく、甘い、ですね。先生の場合は」
「自覚はあるんだ。それにもう一つ、〈こっち〉の世界に引きずり込まれてから、他人を拒むことが怖くなった。周りは、腹の内が読めなくて、ぼくなんて簡単に押さえ込める怖い男ばかりだ。機嫌を損ねることを、無意識のうちに恐れているんだ」
「でも、先生に対して優しい男ばかりでしょう」
わたしも含めて、とヌケヌケと言えてしまうのが、秦という男だろう。声を上げて笑っていた和彦だが、すぐに真顔に戻ると、ぽつりと洩らす。
「だからこそ、怖い。無条件の優しさなんてないとわかっているんだ。この世界でぼくは使い勝手のいい医者で、オンナだ。もし、男たちの期待を裏切ることになったら――」
賢吾は気軽に、もっと傲慢になれと言うが、それは、物騒な世界で生まれ育ってきた者の理屈だ。和彦が抱えている恐れを本質的に理解することはできないはずだ。
「それは、ご自分を過小評価されていますね。先生ご自身が魅力的なのであって、肩書きはあくまで付随してくる価値なのだと、わたしは思っていますが」
「……こういう場所だからかもしれないが、君に口説かれているような、妙な気分になるんだが」
「なっていただいてかまいませんよ?」
和彦は、秦を軽く睨みつけてから、取られた手を抜き取ってグラスに口をつける。
扉の向こうから、従業員たちの挨拶の声が一斉に上がり始める。どうやら開店と同時に、客たちが訪れたようだ。女性たちの華やかな歓声が合図のように、店の空気が一気に盛り上がったように感じる。
扉一枚を隔てて、真剣な顔で愚痴をこぼしている自分がふいにおかしくなり、和彦は無意識のうちに唇を緩めていた。
「実は自分の人生について考えるのは、苦手だ。医者になるまで、親に命じられるままの進路を選んできたせいで、心のどこかで、自分の人生は自分のものではないと思っていたのかもしれない。……今も、似たようなものなのかもな」
気持ちが塞ぎ込んできている証か、そんな自虐的な言葉が口をついて出る。男たちの求めによって、自分の進むべき道は決められていくという危惧もあった。賢吾と関係を持った時点で、そんなことはわかりきっていたはずなのだが、守光から決断を迫られて、先の見えない道が新たに現れたような心境だ。
和彦がふっとため息をついた瞬間、まるで甘い毒を吹き込むように秦が言った。
「――だったら、逃げ出してみますか。新しい人生へと」
いつもよりアルコールの巡りがよくなっているのか、和彦の思考は少し緩慢になっていた。ゆっくりと瞬きを数回繰り返してから、秦をまじまじと見つめる。
「えっ?」
ここまで穏やかに微笑んでいた艶やかな美貌の男が、表情を一変させる。鮮烈な鋭さが潜んだ眼差しで、じっと和彦の目を覗き込んできた。
「わたしと先生は、似ていますよ。権力のある家に生まれ、抗えないままに進む道を決められて、思いがけない事情によって一見順風満帆な人生が一変する。そして、したたかに生き抜く術を身につけた」
「……そんなふうに言われると、確かに」
「わたしと似ているから、わかるんです。先生はきっと――」
秦の話に危うく引き込まれかけた和彦だが、ホストと客たちの一際盛り上がった声が聞こえてきて、我に返る。秦の眼差しがふっと和らぎ、和彦もソファに座り直してから、簡潔に答えた。
「逃げるなんて、ありえない。……というより、あの男たちから逃げられるとは、思えない」
「まあ、そうでしょうね」
あっさりと秦に肯定され、失笑を洩らした和彦だが、きっと本気ではなかったのだろうと思いつつ、質問をぶつけてみた。
「ぼくを唆そうとしていたが、君は何か考えがあるのか?」
「おや、やっぱり興味がありますか」
賢吾に報告するつもりなのではないかと警戒しながら、和彦はぼそりと答える。
「別に……」
「海外に行く気なら、ツテはありますよ。日本国籍を捨てることになりますが、偽造パスポートを作って――」
秦からちらりと視線を向けられ、和彦は苦笑しつつ首を横に振る。
「そこまででいい。ぼくには、そこまで思い切った行動は取れそうにないから。……君は、何をやっても生きていけそうだな」
「なるべくなら、今の仕事で生きていきたいですけどね」
「どの仕事だ?」
この瞬間、二人は視線を交わし合い、感じるものがあった和彦は、深く尋ねることはやめておいた。誰にでも探られたくないことはあり、秦は特にそれが多いだろう。和彦にですら、あるぐらいだ。
秦が水割りを作り直し、グラスを手渡される。忙しい秦をあまりつき合わせても悪いと思い、和彦は勢いよく呷る。すでに自宅マンションに戻っているため、いくら酔ったところで、長嶺の男たちの目を気にしなくてもいいのだ。
「――……酔いが覚めたあと、事態がもう少し簡単になっていればいいのにな」
我ながら子供じみた妄想を呟くと、秦は笑うでもなく、抑えた声でこう応じた。
「先生が本気で逃げ出したいというときは、相談に乗りますよ」
「ぼくが本気で言い出すはずがないと思っているだろ」
さあ、と洩らして、秦は楽しげに笑った。
36
お気に入りに追加
1,391
あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…
しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。
高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。
数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。
そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…



塾の先生を舐めてはいけません(性的な意味で)
ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
個別指導塾で講師のアルバイトを始めたが、妙にスキンシップ多めで懐いてくる生徒がいた。
そしてやがてその生徒の行為はエスカレートし、ついに一線を超えてくる――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる