血と束縛と

北川とも

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第30話

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「先生は、王様のように振る舞ってください。なんといっても、わたしの友人でもあるし、命の恩人でもありますから。それにこの間は、わたしの事情で迷惑をかけてしまいましたしね」
 ソファに腰掛けた和彦は淡い笑みで返し、斜め向かいに座った秦に水割りを作ってもらう。
「――いろいろと大変だったようですね」
 和彦がグラスに口をつけるのを待ってから、秦がそう切り出してくる。一人だけ飲むのは気が引けるが、秦が新たなグラスに氷を入れるのを見て、和彦は安心して会話を始める。
「いろいろありすぎた。……一つ片付いたと思ったら、次が。そして、それが片付かないうちに、次、次――」
「先生はいつでも、波瀾万丈だ」
 自分の分の水割りを作った秦が、意味ありげな流し目を寄越してくる。
「……他人事のような顔をしているが、ぼくは君のせいで、大変な目に遭ったことがあるんだからな」
「それでも先生は、わたしとこうして会ってくれる。その寛容さが、先生の日常がにぎやかになる原因の一つだと思いますね」
 物は言いようだと、苦い顔をした和彦は、ナッツを口に放り込む。すると、すぐ隣に移動してきた秦に片手を取られた。ドキリとした和彦は咄嗟に手を引こうとしたが、予想外の力強さで阻まれる。それ以上の抵抗はできなかった。そんな和彦に対して、秦は満足げに頷く。
「寛容ではなく、甘い、ですね。先生の場合は」
「自覚はあるんだ。それにもう一つ、〈こっち〉の世界に引きずり込まれてから、他人を拒むことが怖くなった。周りは、腹の内が読めなくて、ぼくなんて簡単に押さえ込める怖い男ばかりだ。機嫌を損ねることを、無意識のうちに恐れているんだ」
「でも、先生に対して優しい男ばかりでしょう」
 わたしも含めて、とヌケヌケと言えてしまうのが、秦という男だろう。声を上げて笑っていた和彦だが、すぐに真顔に戻ると、ぽつりと洩らす。
「だからこそ、怖い。無条件の優しさなんてないとわかっているんだ。この世界でぼくは使い勝手のいい医者で、オンナだ。もし、男たちの期待を裏切ることになったら――」
 賢吾は気軽に、もっと傲慢になれと言うが、それは、物騒な世界で生まれ育ってきた者の理屈だ。和彦が抱えている恐れを本質的に理解することはできないはずだ。
「それは、ご自分を過小評価されていますね。先生ご自身が魅力的なのであって、肩書きはあくまで付随してくる価値なのだと、わたしは思っていますが」
「……こういう場所だからかもしれないが、君に口説かれているような、妙な気分になるんだが」
「なっていただいてかまいませんよ?」
 和彦は、秦を軽く睨みつけてから、取られた手を抜き取ってグラスに口をつける。
 扉の向こうから、従業員たちの挨拶の声が一斉に上がり始める。どうやら開店と同時に、客たちが訪れたようだ。女性たちの華やかな歓声が合図のように、店の空気が一気に盛り上がったように感じる。
 扉一枚を隔てて、真剣な顔で愚痴をこぼしている自分がふいにおかしくなり、和彦は無意識のうちに唇を緩めていた。
「実は自分の人生について考えるのは、苦手だ。医者になるまで、親に命じられるままの進路を選んできたせいで、心のどこかで、自分の人生は自分のものではないと思っていたのかもしれない。……今も、似たようなものなのかもな」
 気持ちが塞ぎ込んできている証か、そんな自虐的な言葉が口をついて出る。男たちの求めによって、自分の進むべき道は決められていくという危惧もあった。賢吾と関係を持った時点で、そんなことはわかりきっていたはずなのだが、守光から決断を迫られて、先の見えない道が新たに現れたような心境だ。
 和彦がふっとため息をついた瞬間、まるで甘い毒を吹き込むように秦が言った。
「――だったら、逃げ出してみますか。新しい人生へと」
 いつもよりアルコールの巡りがよくなっているのか、和彦の思考は少し緩慢になっていた。ゆっくりと瞬きを数回繰り返してから、秦をまじまじと見つめる。
「えっ?」
 ここまで穏やかに微笑んでいた艶やかな美貌の男が、表情を一変させる。鮮烈な鋭さが潜んだ眼差しで、じっと和彦の目を覗き込んできた。
「わたしと先生は、似ていますよ。権力のある家に生まれ、抗えないままに進む道を決められて、思いがけない事情によって一見順風満帆な人生が一変する。そして、したたかに生き抜く術を身につけた」
「……そんなふうに言われると、確かに」
「わたしと似ているから、わかるんです。先生はきっと――」
 秦の話に危うく引き込まれかけた和彦だが、ホストと客たちの一際盛り上がった声が聞こえてきて、我に返る。秦の眼差しがふっと和らぎ、和彦もソファに座り直してから、簡潔に答えた。
「逃げるなんて、ありえない。……というより、あの男たちから逃げられるとは、思えない」
「まあ、そうでしょうね」
 あっさりと秦に肯定され、失笑を洩らした和彦だが、きっと本気ではなかったのだろうと思いつつ、質問をぶつけてみた。
「ぼくを唆そうとしていたが、君は何か考えがあるのか?」
「おや、やっぱり興味がありますか」
 賢吾に報告するつもりなのではないかと警戒しながら、和彦はぼそりと答える。
「別に……」
「海外に行く気なら、ツテはありますよ。日本国籍を捨てることになりますが、偽造パスポートを作って――」
 秦からちらりと視線を向けられ、和彦は苦笑しつつ首を横に振る。
「そこまででいい。ぼくには、そこまで思い切った行動は取れそうにないから。……君は、何をやっても生きていけそうだな」
「なるべくなら、今の仕事で生きていきたいですけどね」
「どの仕事だ?」
 この瞬間、二人は視線を交わし合い、感じるものがあった和彦は、深く尋ねることはやめておいた。誰にでも探られたくないことはあり、秦は特にそれが多いだろう。和彦にですら、あるぐらいだ。
 秦が水割りを作り直し、グラスを手渡される。忙しい秦をあまりつき合わせても悪いと思い、和彦は勢いよく呷る。すでに自宅マンションに戻っているため、いくら酔ったところで、長嶺の男たちの目を気にしなくてもいいのだ。
「――……酔いが覚めたあと、事態がもう少し簡単になっていればいいのにな」
 我ながら子供じみた妄想を呟くと、秦は笑うでもなく、抑えた声でこう応じた。
「先生が本気で逃げ出したいというときは、相談に乗りますよ」
「ぼくが本気で言い出すはずがないと思っているだろ」
 さあ、と洩らして、秦は楽しげに笑った。

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