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第30話
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守光の言葉に潜む凄みに、和彦は静かに気圧されていた。言おうとしていることはわかるし、これまでこなしてきた仕事の中で、この世界特有の考え方は少しずつ和彦に染み込んできた。しかし守光は、さらに踏み込んでくる。
今いる世界で和彦は、長嶺の男たちの〈オンナ〉であることが大きな比重を占めてきた。しかし守光の申し出を受けることで、その比重が変わる。
「知らず知らずのうちに、あんたには身についたはずだ。腹に呑み込む、ということが。組のために、男のために、何かしら呑み込んできただろう。これからは、医者として、あんたが呑み込むものは増えてくる。単なる医者ではなく、組織に必要とされる医者としてだ」
あんたならできる、と賢吾によく似た声が力強く言い切る。
強い拒否感と、逃げ出したい気持ちと、それすら凌駕する、見えない圧倒的な力に気持ちを押さえつけられる感覚に、和彦は眩暈に襲われる。
たまらず目を閉じると、じわじわと体内に満ちていくものがあった。強い男に求められているという、奇妙な安堵感だった。
すっかり様子が変わった店内を見回した和彦は、所在なくその場に立ち尽くし、少し戸惑う。
男の自分が来ていい場所なのだろうかと、いまさらながら思ったのだ。
気を利かせた従業員がすぐに動き、和彦をこの場に招いた当人を呼んでくる。開店準備のため、忙しく立ち働いている従業員――ホストたちの誰よりも、華やかな雰囲気と美貌を持つ男は、和彦を見るなり、艶やかな笑みを浮かべた。こんな笑みを向けられては女性客はたまらないだろうが、残念なことに、秦がホストとして接客することはない。特別な場合を除いて。
「いらっしゃいませ」
秦からそう声をかけられ、和彦は苦笑で返す。
「別にぼくは、ホスト遊びがしたくて来たわけじゃないんだが」
「お望みなら、店の者をつけますよ」
「それでぼくがハマったら、君はいろいろ困るんじゃないか」
和彦がそう返すと、秦は芝居がかった仕種であごに指を当て、何か思案するような顔をする。
「それもそうですね……。大事な先生に悪い遊びを教えるなと、いろんな方たちから睨まれそうだ」
「悪い遊びはともかく、夜遊びしたいと言ったのは、ぼくのほうだ。悪かったな。これから稼ぎ時だというのに、店のスペースを占領することになって」
「かまいませんよ。先生なら大歓迎です。それに、わたしの店で飲みたいと連絡が入ったということは、わたしは先生にとって、安全な遊び相手だと認められているということですよね」
「……ぼくの辛気臭い愚痴に、誰かにつき合ってほしかったんだ。長嶺の男は論外、組の人間も避けたかった」
現在のところ、和彦にとって数少ない友人である中嶋も、今回は連絡しなかった。いわゆる『辛気臭い愚痴』の中には、中嶋が所属している組織の話題も含まれているせいだ。
さりげなく秦の手が肩にかかり、促されるままに歩き出す。
男である和彦にとってこのホストクラブは、馴染み深くはないのだが、ある意味、印象深い場所ではある。なんといっても、生まれて初めて、襲撃の瞬間を目の当たりにした場所だ。
内装工事を終えたばかりの店内には、当然のように襲撃の痕跡は一切残っていない。壁紙や絨毯、ソファセットもすべて取り換えられたようだ。おかげで、生々しい記憶を呼び覚まされることもなく、ホールを通り抜けることができた。
秦に連れて行かれたのは、ホールの奥にある仰々しい扉の前だった。その扉には、VIPのプレートがかかっていた。和彦は目を丸くして秦を見る。
「おい、別にこんな――」
「先生が人目につくところで飲んでいると、来店されたお客様方が新しいホストだと思って、指名が入りますよ。経営者としては、先生ほどの方に短時間でも店に出ていただけるなら、嬉しいですが。見た目は申し分ないですし、女性の扱いなんて、下手なホストより慣れているでしょう」
「……医者として食いっぱぐれる事態になったら、考える」
ふふ、と笑った秦が扉を開け、和彦はVIPルームへと足を踏み入れる。
どれだけ華美な装飾に彩られているのだろうかと思ったが、予想に反して室内は、落ち着いた内装だった。それでも調度品はいいものを揃えており、秦の趣味がよく出ている。
「VIPルームとはいっても、人目を気にせず楽しみたいお客様のために用意している部屋というだけで、とんでもない仕掛けがあるわけではないのですよ」
テーブルの上にはすでにアルコールといくつかのつまみが並んでおり、準備万端といった様子だ。これが、羽振りのいい客をもてなすためのものではないのだから、いまさらながら和彦は申し訳なくなってくる。そんな和彦に、秦はこう言葉をかけてきた。
今いる世界で和彦は、長嶺の男たちの〈オンナ〉であることが大きな比重を占めてきた。しかし守光の申し出を受けることで、その比重が変わる。
「知らず知らずのうちに、あんたには身についたはずだ。腹に呑み込む、ということが。組のために、男のために、何かしら呑み込んできただろう。これからは、医者として、あんたが呑み込むものは増えてくる。単なる医者ではなく、組織に必要とされる医者としてだ」
あんたならできる、と賢吾によく似た声が力強く言い切る。
強い拒否感と、逃げ出したい気持ちと、それすら凌駕する、見えない圧倒的な力に気持ちを押さえつけられる感覚に、和彦は眩暈に襲われる。
たまらず目を閉じると、じわじわと体内に満ちていくものがあった。強い男に求められているという、奇妙な安堵感だった。
すっかり様子が変わった店内を見回した和彦は、所在なくその場に立ち尽くし、少し戸惑う。
男の自分が来ていい場所なのだろうかと、いまさらながら思ったのだ。
気を利かせた従業員がすぐに動き、和彦をこの場に招いた当人を呼んでくる。開店準備のため、忙しく立ち働いている従業員――ホストたちの誰よりも、華やかな雰囲気と美貌を持つ男は、和彦を見るなり、艶やかな笑みを浮かべた。こんな笑みを向けられては女性客はたまらないだろうが、残念なことに、秦がホストとして接客することはない。特別な場合を除いて。
「いらっしゃいませ」
秦からそう声をかけられ、和彦は苦笑で返す。
「別にぼくは、ホスト遊びがしたくて来たわけじゃないんだが」
「お望みなら、店の者をつけますよ」
「それでぼくがハマったら、君はいろいろ困るんじゃないか」
和彦がそう返すと、秦は芝居がかった仕種であごに指を当て、何か思案するような顔をする。
「それもそうですね……。大事な先生に悪い遊びを教えるなと、いろんな方たちから睨まれそうだ」
「悪い遊びはともかく、夜遊びしたいと言ったのは、ぼくのほうだ。悪かったな。これから稼ぎ時だというのに、店のスペースを占領することになって」
「かまいませんよ。先生なら大歓迎です。それに、わたしの店で飲みたいと連絡が入ったということは、わたしは先生にとって、安全な遊び相手だと認められているということですよね」
「……ぼくの辛気臭い愚痴に、誰かにつき合ってほしかったんだ。長嶺の男は論外、組の人間も避けたかった」
現在のところ、和彦にとって数少ない友人である中嶋も、今回は連絡しなかった。いわゆる『辛気臭い愚痴』の中には、中嶋が所属している組織の話題も含まれているせいだ。
さりげなく秦の手が肩にかかり、促されるままに歩き出す。
男である和彦にとってこのホストクラブは、馴染み深くはないのだが、ある意味、印象深い場所ではある。なんといっても、生まれて初めて、襲撃の瞬間を目の当たりにした場所だ。
内装工事を終えたばかりの店内には、当然のように襲撃の痕跡は一切残っていない。壁紙や絨毯、ソファセットもすべて取り換えられたようだ。おかげで、生々しい記憶を呼び覚まされることもなく、ホールを通り抜けることができた。
秦に連れて行かれたのは、ホールの奥にある仰々しい扉の前だった。その扉には、VIPのプレートがかかっていた。和彦は目を丸くして秦を見る。
「おい、別にこんな――」
「先生が人目につくところで飲んでいると、来店されたお客様方が新しいホストだと思って、指名が入りますよ。経営者としては、先生ほどの方に短時間でも店に出ていただけるなら、嬉しいですが。見た目は申し分ないですし、女性の扱いなんて、下手なホストより慣れているでしょう」
「……医者として食いっぱぐれる事態になったら、考える」
ふふ、と笑った秦が扉を開け、和彦はVIPルームへと足を踏み入れる。
どれだけ華美な装飾に彩られているのだろうかと思ったが、予想に反して室内は、落ち着いた内装だった。それでも調度品はいいものを揃えており、秦の趣味がよく出ている。
「VIPルームとはいっても、人目を気にせず楽しみたいお客様のために用意している部屋というだけで、とんでもない仕掛けがあるわけではないのですよ」
テーブルの上にはすでにアルコールといくつかのつまみが並んでおり、準備万端といった様子だ。これが、羽振りのいい客をもてなすためのものではないのだから、いまさらながら和彦は申し訳なくなってくる。そんな和彦に、秦はこう言葉をかけてきた。
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