699 / 1,268
第30話
(17)
しおりを挟む
忘れたことはなかった。英俊と会うことに神経をすり減らしながらも、常に頭の片隅にあった件だ。このままなかったことにならないだろうかと、願わなかったといえばウソになるが、巨大な組織を背負う者に、そんな甘さがあるはずもない。和彦の状態が落ち着くのを待っていたということは、虎視淡々と機会をうかがっていたのだ。
「重責を背負わされるとは考えんでほしい。クリニックはあくまで、総和会における佐伯和彦という人物の地位を示すためのものだ。極道であれば、肩書きを与えて、組を持たせて、とやりようがあるが、あんたは違う。極道ではないからこそ、価値がある。いや、佐伯和彦であるからこそ、〈我々〉はあんたを大事にしたい」
「ぼくに、そこまでの価値は――」
「三世代の長嶺の男に想われているというだけで、十分価値はある。他の男たちにとっても。手間と金をかけて、あんたにクリニックを持たせるということは、要は檻だ。あんたを逃がさんためではなく、守るための」
これは、長嶺の男特有の詭弁だ。だが、理性を揺さぶるだけの熱意も甘美さもあった。禍々しい狐を背負った男の言うことは、どこに真意があるのかまったく読めないが、すべてがウソというわけではないだろう。和彦を必要として、逃すまいとしている。この物騒な世界から、とっくに逃げられなくなっている和彦を。
自分の存在に価値を見出してくれるのはありがたいが、反面、医者としての腕や経験が未熟であるという現実が、肩に重くのしかかってくる。
堪らず、苦しい胸の内を気持ちを吐露していた。
「ぼくは、自分を知っているつもりです。医者として、何もかも不足しているんです。毎回、患者がいると連絡が入るたびに、自分の手に負えられる状態であってほしいと、祈っています。腕がいいからじゃない。使い勝手がいいから、必要とされていることは、よくわかっています。それでも……患者を助けられたときは、普通の医者のような喜びを味わえるんです。だから、仕事をこなせてきた」
話しながら和彦は、前髪に指を差し込む。
「これ以上のプレッシャーを抱えると、きっとぼくの頭も気持ちも容量がいっぱいになります。前にしていただいたお話は覚えています。最低限の必要な手続きをして、ときどき業務に目を配って、あとは好きなようにしていいと……。でも、きっとそうはならないと思います。ぼくは、身の程知らずにも、患者に関わっていくはずです」
「――あんたの感情が乱れているのは、何日か前に、目の前で患者に死なれたからか」
和彦はハッとして顔を上げる。賢吾とよく似た冷徹な眼差しで見据えられ、無意識のうちに息を呑んでいた。
「報告は受けている。手を施して死なせるのと、手の施しようがなくて死なせるのと、どちらがより医者には堪えるのか、わしには想像のしようがない。わしだけではなく、賢吾も同じだろう。だから白々しい慰めの言葉などかけなかったはずだ」
「ええ、そうです……」
もとより和彦は、そんなものは求めてはいなかった。優しい言葉などかけられたら、情けなさで消え入りたくなっていたはずだ。
ただ、賢吾は賢吾なりに気遣いを見せてくれた。そして、鷹津も――。
和彦の心を揺れを感じ取ったのか、守光がふっと目元を和らげる。思いがけない反応に和彦は戸惑う。
「弱ったあんたを支えたがる男は、いくらでもいるだろう。性質のよくない癖を持つ者なら、そんなあんたをさらに追い詰めたくなるかもしれんが。……さて、わしはどちらだろうな」
もちろん守光は和彦に返事を求めているわけではなく、穏やかな口調のまま、こう続けた。
「総和会も長嶺組も、佐伯和彦に、完璧な医者であることは求めておらんよ。これがまっとうな社会での、まっとうな医者に対してであったなら、人道的な正しさを求めるのだろうが、あんたが今いるのは、耳当たりのいい理屈が存在しない社会だ。ときには命は、面子と秤にかけられて、軽く扱われてしまうものだ」
「……それは、常々感じていることです」
「いいや、感じてはいるが、理解はしていない。――あんたはいわば、組織が、個人に対して示せる〈誠意〉だ。医者としての腕はどうでもいい。総和会や長嶺組が大事にしている医者が、請われれば、若い衆だろうが、不義理を働いた者だろうが治療する。そのことに、忠義や恩義、心意気を感じる。組織は、支えてくれている者たちがいて成り立つが、その者たちを守るために、また組織がある。これは、非情である反面、きちんと血の通っている形式だ。その形式のために、特別な医者であるあんたが、必要なのだ」
「重責を背負わされるとは考えんでほしい。クリニックはあくまで、総和会における佐伯和彦という人物の地位を示すためのものだ。極道であれば、肩書きを与えて、組を持たせて、とやりようがあるが、あんたは違う。極道ではないからこそ、価値がある。いや、佐伯和彦であるからこそ、〈我々〉はあんたを大事にしたい」
「ぼくに、そこまでの価値は――」
「三世代の長嶺の男に想われているというだけで、十分価値はある。他の男たちにとっても。手間と金をかけて、あんたにクリニックを持たせるということは、要は檻だ。あんたを逃がさんためではなく、守るための」
これは、長嶺の男特有の詭弁だ。だが、理性を揺さぶるだけの熱意も甘美さもあった。禍々しい狐を背負った男の言うことは、どこに真意があるのかまったく読めないが、すべてがウソというわけではないだろう。和彦を必要として、逃すまいとしている。この物騒な世界から、とっくに逃げられなくなっている和彦を。
自分の存在に価値を見出してくれるのはありがたいが、反面、医者としての腕や経験が未熟であるという現実が、肩に重くのしかかってくる。
堪らず、苦しい胸の内を気持ちを吐露していた。
「ぼくは、自分を知っているつもりです。医者として、何もかも不足しているんです。毎回、患者がいると連絡が入るたびに、自分の手に負えられる状態であってほしいと、祈っています。腕がいいからじゃない。使い勝手がいいから、必要とされていることは、よくわかっています。それでも……患者を助けられたときは、普通の医者のような喜びを味わえるんです。だから、仕事をこなせてきた」
話しながら和彦は、前髪に指を差し込む。
「これ以上のプレッシャーを抱えると、きっとぼくの頭も気持ちも容量がいっぱいになります。前にしていただいたお話は覚えています。最低限の必要な手続きをして、ときどき業務に目を配って、あとは好きなようにしていいと……。でも、きっとそうはならないと思います。ぼくは、身の程知らずにも、患者に関わっていくはずです」
「――あんたの感情が乱れているのは、何日か前に、目の前で患者に死なれたからか」
和彦はハッとして顔を上げる。賢吾とよく似た冷徹な眼差しで見据えられ、無意識のうちに息を呑んでいた。
「報告は受けている。手を施して死なせるのと、手の施しようがなくて死なせるのと、どちらがより医者には堪えるのか、わしには想像のしようがない。わしだけではなく、賢吾も同じだろう。だから白々しい慰めの言葉などかけなかったはずだ」
「ええ、そうです……」
もとより和彦は、そんなものは求めてはいなかった。優しい言葉などかけられたら、情けなさで消え入りたくなっていたはずだ。
ただ、賢吾は賢吾なりに気遣いを見せてくれた。そして、鷹津も――。
和彦の心を揺れを感じ取ったのか、守光がふっと目元を和らげる。思いがけない反応に和彦は戸惑う。
「弱ったあんたを支えたがる男は、いくらでもいるだろう。性質のよくない癖を持つ者なら、そんなあんたをさらに追い詰めたくなるかもしれんが。……さて、わしはどちらだろうな」
もちろん守光は和彦に返事を求めているわけではなく、穏やかな口調のまま、こう続けた。
「総和会も長嶺組も、佐伯和彦に、完璧な医者であることは求めておらんよ。これがまっとうな社会での、まっとうな医者に対してであったなら、人道的な正しさを求めるのだろうが、あんたが今いるのは、耳当たりのいい理屈が存在しない社会だ。ときには命は、面子と秤にかけられて、軽く扱われてしまうものだ」
「……それは、常々感じていることです」
「いいや、感じてはいるが、理解はしていない。――あんたはいわば、組織が、個人に対して示せる〈誠意〉だ。医者としての腕はどうでもいい。総和会や長嶺組が大事にしている医者が、請われれば、若い衆だろうが、不義理を働いた者だろうが治療する。そのことに、忠義や恩義、心意気を感じる。組織は、支えてくれている者たちがいて成り立つが、その者たちを守るために、また組織がある。これは、非情である反面、きちんと血の通っている形式だ。その形式のために、特別な医者であるあんたが、必要なのだ」
38
お気に入りに追加
1,391
あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…
しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。
高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。
数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。
そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…



塾の先生を舐めてはいけません(性的な意味で)
ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
個別指導塾で講師のアルバイトを始めたが、妙にスキンシップ多めで懐いてくる生徒がいた。
そしてやがてその生徒の行為はエスカレートし、ついに一線を超えてくる――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる