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第30話
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和彦を案内した男が声をかけ、スッと襖を開ける。座椅子についた守光と目が合い、穏やかに微笑みかけられた。和彦もぎこちなく微笑み返す。
「しっかり働いたあとだと、腹も減っただろう。すぐに料理を運ばせよう」
和彦が向かいに座ると同時に、守光がそう切り出す。和彦は、お茶と一緒に運ばれてきたおしぼりで手を拭きながら、改めて守光を見つめる。今晩はすでに総和会会長としての仕事を終えているのか、ノーネクタイ姿だった。
和彦の視線に気づいたのか、守光は自分の格好を見下ろしてから、こう言った。
「あんたが相手だと、体面を取り繕う必要もない。もしかすると普段から、大物ぶった格好をしているとか、年甲斐のない格好をしているとか思われているのかもしれんが」
「いえっ、そんなことっ……」
わかっている、と言って、守光が笑う。
「今のような立場にいると、相手の目にどう映るのが効果的か、そういう賢しいことでも神経を使う。大なり小なり、この世界で生きている人間は、そういうものだ。己の存在を軽んじられるのは、何よりの侮辱だということだ」
肩書きは医者である和彦にこういうことを説くのは、そういう人間になれというわけではなく、関わりを持つ男たちがどういう生き物なのか、理解しておけということだろう。その関わりを持つ男たちの中には当然、守光自身も含まれている。
他愛ない会話を交わしている間に、料理が運ばれてきて目の前に並ぶ。ここで意外に感じたが、今晩は酒は用意されておらず、守光はお茶で口を湿らせた。和彦には、グラスワインが。あまり細かいことを指摘するのも不躾に思え、和彦は口当たりの軽いワインを一口飲む。
和やかな雰囲気のまま食事は始まった。守光に呼ばれた理由を、最初はあれこれと推測していた和彦だが、料理の一品一品を満足げに味わう守光につられて、食事に集中する。確かに、働いたあとだけに空腹だったのだ。
「本宅では、しっかりと美味いものを食わせてもらっているかね?」
揚げ物をすべて食べ終えた和彦に、守光がそう問いかけてくる。美味しいものを食べてすっかり気分が解れた和彦は、笑みをこぼして頷く。
「はい。すっかりぼくが好きな味を把握されたみたいで、毎日、美味しいものを食べさせてもらっています」
「なぜか昔から、本宅の台所は男が守っている。わしの父親が、台所に立つ女の姿を見て、気持ちが和らぐのを避けるためだと言っていたが、本当かどうかはわからん。昔は、血気に逸っていた時代もあったが、今は穏やかなものだ。それでも、伝統のようなものだと思えば、いまさら変える気にもならんだろう、賢吾も。千尋は、どうだろうな」
千尋の名が出た瞬間、和彦の脳裏を過ったのは、賢吾から言われた意味ありげな言葉だ。
千尋の次の跡目――。
好奇心と自戒が入り混じり、それが顔に出そうになったが、なんとか抑えた。
「今の千尋の姿を見ていると、組を継いだときの姿が想像できないですね。ときどき、こちらがうろたえるほどの鋭さを見せるときはあるんですが」
「あんたにだけは甘えているからな。先日の賢吾とのやり取りを覚えているだろうが、あれは、まだまだこれからの若木だ。わしはそう長くは無理だろうが、賢吾がしっかりと鍛えてくれる。それに――あんたが見守ってくれる、と信じている」
ここまで柔らかだった守光の声に、ドキリとするような力強さが加わる。和彦が目を丸くすると、守光は何事もなかった様子で鰻の押し寿司を口に運ぶ。
やはり、食事のためだけに呼ばれたわけではないのだと、確信めいたものがやっと持てた。
守光が本題を切り出したのは、器が片付けられ、食後のデザートであるイチゴのムースを、和彦がスプーンで掬ったときだった。
「あんたと佐伯家の件が一旦落ち着いたと判断して、今晩は来てもらった」
反射的に姿勢を正した和彦は、スプーンを置く。ちらりと笑みを浮かべた守光に食べながらでかまわないと言われ、ぎこちなく従う。
イチゴの程よい甘酸っぱさが舌の上で広がったが、それも一瞬だ。和彦は意識のすべてを守光との会話に傾けなくてはならなくなった。
「いろいろあって余裕がなかったかもしれんが、それでも十分に考える時間はあったと思っている。――そろそろ結論を出してほしい」
守光のこの物言いで、なんのことを指しているのか、即座に和彦は理解した。
「……クリニックの開業のことですか」
「しっかり働いたあとだと、腹も減っただろう。すぐに料理を運ばせよう」
和彦が向かいに座ると同時に、守光がそう切り出す。和彦は、お茶と一緒に運ばれてきたおしぼりで手を拭きながら、改めて守光を見つめる。今晩はすでに総和会会長としての仕事を終えているのか、ノーネクタイ姿だった。
和彦の視線に気づいたのか、守光は自分の格好を見下ろしてから、こう言った。
「あんたが相手だと、体面を取り繕う必要もない。もしかすると普段から、大物ぶった格好をしているとか、年甲斐のない格好をしているとか思われているのかもしれんが」
「いえっ、そんなことっ……」
わかっている、と言って、守光が笑う。
「今のような立場にいると、相手の目にどう映るのが効果的か、そういう賢しいことでも神経を使う。大なり小なり、この世界で生きている人間は、そういうものだ。己の存在を軽んじられるのは、何よりの侮辱だということだ」
肩書きは医者である和彦にこういうことを説くのは、そういう人間になれというわけではなく、関わりを持つ男たちがどういう生き物なのか、理解しておけということだろう。その関わりを持つ男たちの中には当然、守光自身も含まれている。
他愛ない会話を交わしている間に、料理が運ばれてきて目の前に並ぶ。ここで意外に感じたが、今晩は酒は用意されておらず、守光はお茶で口を湿らせた。和彦には、グラスワインが。あまり細かいことを指摘するのも不躾に思え、和彦は口当たりの軽いワインを一口飲む。
和やかな雰囲気のまま食事は始まった。守光に呼ばれた理由を、最初はあれこれと推測していた和彦だが、料理の一品一品を満足げに味わう守光につられて、食事に集中する。確かに、働いたあとだけに空腹だったのだ。
「本宅では、しっかりと美味いものを食わせてもらっているかね?」
揚げ物をすべて食べ終えた和彦に、守光がそう問いかけてくる。美味しいものを食べてすっかり気分が解れた和彦は、笑みをこぼして頷く。
「はい。すっかりぼくが好きな味を把握されたみたいで、毎日、美味しいものを食べさせてもらっています」
「なぜか昔から、本宅の台所は男が守っている。わしの父親が、台所に立つ女の姿を見て、気持ちが和らぐのを避けるためだと言っていたが、本当かどうかはわからん。昔は、血気に逸っていた時代もあったが、今は穏やかなものだ。それでも、伝統のようなものだと思えば、いまさら変える気にもならんだろう、賢吾も。千尋は、どうだろうな」
千尋の名が出た瞬間、和彦の脳裏を過ったのは、賢吾から言われた意味ありげな言葉だ。
千尋の次の跡目――。
好奇心と自戒が入り混じり、それが顔に出そうになったが、なんとか抑えた。
「今の千尋の姿を見ていると、組を継いだときの姿が想像できないですね。ときどき、こちらがうろたえるほどの鋭さを見せるときはあるんですが」
「あんたにだけは甘えているからな。先日の賢吾とのやり取りを覚えているだろうが、あれは、まだまだこれからの若木だ。わしはそう長くは無理だろうが、賢吾がしっかりと鍛えてくれる。それに――あんたが見守ってくれる、と信じている」
ここまで柔らかだった守光の声に、ドキリとするような力強さが加わる。和彦が目を丸くすると、守光は何事もなかった様子で鰻の押し寿司を口に運ぶ。
やはり、食事のためだけに呼ばれたわけではないのだと、確信めいたものがやっと持てた。
守光が本題を切り出したのは、器が片付けられ、食後のデザートであるイチゴのムースを、和彦がスプーンで掬ったときだった。
「あんたと佐伯家の件が一旦落ち着いたと判断して、今晩は来てもらった」
反射的に姿勢を正した和彦は、スプーンを置く。ちらりと笑みを浮かべた守光に食べながらでかまわないと言われ、ぎこちなく従う。
イチゴの程よい甘酸っぱさが舌の上で広がったが、それも一瞬だ。和彦は意識のすべてを守光との会話に傾けなくてはならなくなった。
「いろいろあって余裕がなかったかもしれんが、それでも十分に考える時間はあったと思っている。――そろそろ結論を出してほしい」
守光のこの物言いで、なんのことを指しているのか、即座に和彦は理解した。
「……クリニックの開業のことですか」
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