血と束縛と

北川とも

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第30話

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「あいつは番犬どころか、今じゃ先生の騎士気取りかもな。自分が犬であることを忘れたんだ。それもこれも先生が、鷹津を甘やかすからだ。躾もせず、ちょっとしたお使い仕事をこなすだけで、美味い餌をたっぷり与えて……。甘やかすだけじゃ狂犬は、単なる駄犬になる」
 賢吾の口調が暗い凄みを帯びる。その迫力に圧された和彦は、知らず知らずのうちに体を後ろに引きそうになったが、賢吾に強く指を掴まれて、首を竦める。
「痛っ」
「――そろそろ鷹津を、適度に距離を置いて飼う時期になったのかもな。刑事であるあいつ自身にとっても、それがいいと思わないか?」
 底冷えするような冷徹な眼差しを向けられて、和彦は返事ができなかった。迂闊な返事をしてしまえば、賢吾が鷹津をどうにかしてしまいそうな、そんな危機感が芽生えていた。
 和彦が顔を強張らせると、賢吾は苦笑を浮かべて手の力を抜く。和彦は素早く指を抜き取ると、急いで立ち上がる。
「少し、中庭で風に当たってくる」
 賢吾の顔も見ないでそう言い置き、部屋を出ようとすると、冗談交じりの言葉を背後からかけられた。
「この歳で、色恋で嫉妬することになるとは、思いもしなかった。――嫉妬深い男は嫌いか、先生?」
 和彦は何も言わず、振り返りもせずに部屋を出る。自分でも戸惑うほど、賢吾の言葉に動揺していた。賢吾の目に、鷹津の存在がそんなふうに見えていたことにも驚いたが、鷹津の身を心底心配している自分自身に、気づいたからだ。
 鷹津の存在が自分の中で変わりつつある。足早に廊下を歩きながら、和彦は無意識のうちに胸に手をやろうとして、寸前のところで我に返る。
 今それを確認するのは、この家ではあまりに危険すぎた。
 ここは、物騒な大蛇の住処なのだ――。




 最後まで残っていたスタッフを見送った和彦は、いつもより時間をかけて日常業務を終え、パソコンの電源を落としてしまうと、所在なくクリニック内を歩いて回る。目についたところの掃除でも、と思ったが、ここで働いているスタッフたちは有能で、まじめだ。どこも手を抜いた様子がない。
 仕方なく診察室の自分のデスクに戻ると、椅子の背もたれに体を預けてなんとなくぼんやりとする。
 長嶺の本宅に帰りたくない心境だった。
 賢吾と、鷹津について話したあと、和彦に対して当たりがきつくなったということはない。自らを嫉妬深いと言う賢吾だが、胸の内はわからないものの、普段と変わらず和彦に接している。だからこそ、身構えてしまうのだ。
 本宅にいて、少し気が休まらなくなっているのは確かだ。だからといって、宣言したとおりにマンションに戻るのは、抱えた後ろめたさを証明するようだ。前までの和彦なら、相手がなんと思おうがさほど気にも留めなかったのだろうが、今は違う。関係を持つあらゆる男たちのことが気になる。打算や思惑があるにせよ、和彦を大事にしてくれる男たちだ。
 こう感じることも、賢吾の嫉妬心を刺激するのだろうかと、和彦がひっそりと苦笑いを洩らしたそのとき、デスクの上に置いた携帯電話が鳴った。
 いつまでも降りてこない自分を心配して、護衛の組員がかけてきたのだと思い、無防備に電話に出た和彦だったが、すぐに背筋を伸ばし、緊張することになる。
『――仕事は終わったかね?』
 太く艶のある声が耳に届くと同時に、電話越しに静謐な空気が伝わってくる。どこから電話をかけてきているのだろうかと、ちらりと頭の片隅で思いながら、和彦は硬い口調で応じた。
「ええ。まだクリニックにはいますが、仕事はもう……」
『ちょうどよかった。これから夕食を一緒にどうかね』
 守光からの誘いを断れるはずもなく、和彦は承諾する。行き先は、護衛の車に連絡すると告げられて電話が切れる。
 ぼんやりと座っている余裕はなくなり、慌てて帰り仕度を整えた和彦はクリニックを出る。車に乗り込むと、こちらから何か言うまでもなく、車はいつもとは違う道を走り始めた。
 車の微かな振動に身を任せているうちに、突然の守光からの電話による緊張がいくらか解けてくる。和彦はようやくシートにもたれかかると、まだ明るい外の景色に目を向ける。
 長嶺の本宅に帰りたくないと思っているところに、守光から食事に誘われるのは、何かしら運命めいたものが働いているのだろうかと、つい考えてしまう。
 車は、ある料亭の前で停まった。まったく知らない場所ではなく、和彦はかつて一度、ここを訪れたことがある。
 門の前で待機していた男が素早く車のドアを開ける手順も、料亭内の美しい日本庭園も、案内された座敷も、すべてが前回と同じだ。
 違っているのは、守光と体の関係を持ったということだろう。

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