697 / 1,268
第30話
(15)
しおりを挟む
「あいつは番犬どころか、今じゃ先生の騎士気取りかもな。自分が犬であることを忘れたんだ。それもこれも先生が、鷹津を甘やかすからだ。躾もせず、ちょっとしたお使い仕事をこなすだけで、美味い餌をたっぷり与えて……。甘やかすだけじゃ狂犬は、単なる駄犬になる」
賢吾の口調が暗い凄みを帯びる。その迫力に圧された和彦は、知らず知らずのうちに体を後ろに引きそうになったが、賢吾に強く指を掴まれて、首を竦める。
「痛っ」
「――そろそろ鷹津を、適度に距離を置いて飼う時期になったのかもな。刑事であるあいつ自身にとっても、それがいいと思わないか?」
底冷えするような冷徹な眼差しを向けられて、和彦は返事ができなかった。迂闊な返事をしてしまえば、賢吾が鷹津をどうにかしてしまいそうな、そんな危機感が芽生えていた。
和彦が顔を強張らせると、賢吾は苦笑を浮かべて手の力を抜く。和彦は素早く指を抜き取ると、急いで立ち上がる。
「少し、中庭で風に当たってくる」
賢吾の顔も見ないでそう言い置き、部屋を出ようとすると、冗談交じりの言葉を背後からかけられた。
「この歳で、色恋で嫉妬することになるとは、思いもしなかった。――嫉妬深い男は嫌いか、先生?」
和彦は何も言わず、振り返りもせずに部屋を出る。自分でも戸惑うほど、賢吾の言葉に動揺していた。賢吾の目に、鷹津の存在がそんなふうに見えていたことにも驚いたが、鷹津の身を心底心配している自分自身に、気づいたからだ。
鷹津の存在が自分の中で変わりつつある。足早に廊下を歩きながら、和彦は無意識のうちに胸に手をやろうとして、寸前のところで我に返る。
今それを確認するのは、この家ではあまりに危険すぎた。
ここは、物騒な大蛇の住処なのだ――。
最後まで残っていたスタッフを見送った和彦は、いつもより時間をかけて日常業務を終え、パソコンの電源を落としてしまうと、所在なくクリニック内を歩いて回る。目についたところの掃除でも、と思ったが、ここで働いているスタッフたちは有能で、まじめだ。どこも手を抜いた様子がない。
仕方なく診察室の自分のデスクに戻ると、椅子の背もたれに体を預けてなんとなくぼんやりとする。
長嶺の本宅に帰りたくない心境だった。
賢吾と、鷹津について話したあと、和彦に対して当たりがきつくなったということはない。自らを嫉妬深いと言う賢吾だが、胸の内はわからないものの、普段と変わらず和彦に接している。だからこそ、身構えてしまうのだ。
本宅にいて、少し気が休まらなくなっているのは確かだ。だからといって、宣言したとおりにマンションに戻るのは、抱えた後ろめたさを証明するようだ。前までの和彦なら、相手がなんと思おうがさほど気にも留めなかったのだろうが、今は違う。関係を持つあらゆる男たちのことが気になる。打算や思惑があるにせよ、和彦を大事にしてくれる男たちだ。
こう感じることも、賢吾の嫉妬心を刺激するのだろうかと、和彦がひっそりと苦笑いを洩らしたそのとき、デスクの上に置いた携帯電話が鳴った。
いつまでも降りてこない自分を心配して、護衛の組員がかけてきたのだと思い、無防備に電話に出た和彦だったが、すぐに背筋を伸ばし、緊張することになる。
『――仕事は終わったかね?』
太く艶のある声が耳に届くと同時に、電話越しに静謐な空気が伝わってくる。どこから電話をかけてきているのだろうかと、ちらりと頭の片隅で思いながら、和彦は硬い口調で応じた。
「ええ。まだクリニックにはいますが、仕事はもう……」
『ちょうどよかった。これから夕食を一緒にどうかね』
守光からの誘いを断れるはずもなく、和彦は承諾する。行き先は、護衛の車に連絡すると告げられて電話が切れる。
ぼんやりと座っている余裕はなくなり、慌てて帰り仕度を整えた和彦はクリニックを出る。車に乗り込むと、こちらから何か言うまでもなく、車はいつもとは違う道を走り始めた。
車の微かな振動に身を任せているうちに、突然の守光からの電話による緊張がいくらか解けてくる。和彦はようやくシートにもたれかかると、まだ明るい外の景色に目を向ける。
長嶺の本宅に帰りたくないと思っているところに、守光から食事に誘われるのは、何かしら運命めいたものが働いているのだろうかと、つい考えてしまう。
車は、ある料亭の前で停まった。まったく知らない場所ではなく、和彦はかつて一度、ここを訪れたことがある。
門の前で待機していた男が素早く車のドアを開ける手順も、料亭内の美しい日本庭園も、案内された座敷も、すべてが前回と同じだ。
違っているのは、守光と体の関係を持ったということだろう。
賢吾の口調が暗い凄みを帯びる。その迫力に圧された和彦は、知らず知らずのうちに体を後ろに引きそうになったが、賢吾に強く指を掴まれて、首を竦める。
「痛っ」
「――そろそろ鷹津を、適度に距離を置いて飼う時期になったのかもな。刑事であるあいつ自身にとっても、それがいいと思わないか?」
底冷えするような冷徹な眼差しを向けられて、和彦は返事ができなかった。迂闊な返事をしてしまえば、賢吾が鷹津をどうにかしてしまいそうな、そんな危機感が芽生えていた。
和彦が顔を強張らせると、賢吾は苦笑を浮かべて手の力を抜く。和彦は素早く指を抜き取ると、急いで立ち上がる。
「少し、中庭で風に当たってくる」
賢吾の顔も見ないでそう言い置き、部屋を出ようとすると、冗談交じりの言葉を背後からかけられた。
「この歳で、色恋で嫉妬することになるとは、思いもしなかった。――嫉妬深い男は嫌いか、先生?」
和彦は何も言わず、振り返りもせずに部屋を出る。自分でも戸惑うほど、賢吾の言葉に動揺していた。賢吾の目に、鷹津の存在がそんなふうに見えていたことにも驚いたが、鷹津の身を心底心配している自分自身に、気づいたからだ。
鷹津の存在が自分の中で変わりつつある。足早に廊下を歩きながら、和彦は無意識のうちに胸に手をやろうとして、寸前のところで我に返る。
今それを確認するのは、この家ではあまりに危険すぎた。
ここは、物騒な大蛇の住処なのだ――。
最後まで残っていたスタッフを見送った和彦は、いつもより時間をかけて日常業務を終え、パソコンの電源を落としてしまうと、所在なくクリニック内を歩いて回る。目についたところの掃除でも、と思ったが、ここで働いているスタッフたちは有能で、まじめだ。どこも手を抜いた様子がない。
仕方なく診察室の自分のデスクに戻ると、椅子の背もたれに体を預けてなんとなくぼんやりとする。
長嶺の本宅に帰りたくない心境だった。
賢吾と、鷹津について話したあと、和彦に対して当たりがきつくなったということはない。自らを嫉妬深いと言う賢吾だが、胸の内はわからないものの、普段と変わらず和彦に接している。だからこそ、身構えてしまうのだ。
本宅にいて、少し気が休まらなくなっているのは確かだ。だからといって、宣言したとおりにマンションに戻るのは、抱えた後ろめたさを証明するようだ。前までの和彦なら、相手がなんと思おうがさほど気にも留めなかったのだろうが、今は違う。関係を持つあらゆる男たちのことが気になる。打算や思惑があるにせよ、和彦を大事にしてくれる男たちだ。
こう感じることも、賢吾の嫉妬心を刺激するのだろうかと、和彦がひっそりと苦笑いを洩らしたそのとき、デスクの上に置いた携帯電話が鳴った。
いつまでも降りてこない自分を心配して、護衛の組員がかけてきたのだと思い、無防備に電話に出た和彦だったが、すぐに背筋を伸ばし、緊張することになる。
『――仕事は終わったかね?』
太く艶のある声が耳に届くと同時に、電話越しに静謐な空気が伝わってくる。どこから電話をかけてきているのだろうかと、ちらりと頭の片隅で思いながら、和彦は硬い口調で応じた。
「ええ。まだクリニックにはいますが、仕事はもう……」
『ちょうどよかった。これから夕食を一緒にどうかね』
守光からの誘いを断れるはずもなく、和彦は承諾する。行き先は、護衛の車に連絡すると告げられて電話が切れる。
ぼんやりと座っている余裕はなくなり、慌てて帰り仕度を整えた和彦はクリニックを出る。車に乗り込むと、こちらから何か言うまでもなく、車はいつもとは違う道を走り始めた。
車の微かな振動に身を任せているうちに、突然の守光からの電話による緊張がいくらか解けてくる。和彦はようやくシートにもたれかかると、まだ明るい外の景色に目を向ける。
長嶺の本宅に帰りたくないと思っているところに、守光から食事に誘われるのは、何かしら運命めいたものが働いているのだろうかと、つい考えてしまう。
車は、ある料亭の前で停まった。まったく知らない場所ではなく、和彦はかつて一度、ここを訪れたことがある。
門の前で待機していた男が素早く車のドアを開ける手順も、料亭内の美しい日本庭園も、案内された座敷も、すべてが前回と同じだ。
違っているのは、守光と体の関係を持ったということだろう。
28
お気に入りに追加
1,391
あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…
しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。
高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。
数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。
そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…



塾の先生を舐めてはいけません(性的な意味で)
ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
個別指導塾で講師のアルバイトを始めたが、妙にスキンシップ多めで懐いてくる生徒がいた。
そしてやがてその生徒の行為はエスカレートし、ついに一線を超えてくる――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる