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第30話
(14)
しおりを挟むテレビの画面を漫然と眺めていた和彦に、部屋に戻ってきた賢吾がおもしろがるように話しかけてくる。
「先生はスポーツに興味がないタイプかと思ったが、野球が好きなのか?」
数瞬、なんのことかと思った和彦だが、賢吾とテレビの画面を交互に見て、ああ、と声を洩らした。テレビでちょうど流れているのは、プロ野球の結果だ。視線はテレビに向けていながら、内容が一切頭に入っていなかった。
「そういうわけじゃ……」
ちょっと考え事をしていたと言いかけて、口ごもる。賢吾が向かいの座椅子に座ったので、和彦はテレビを消した。
「どうした、先生?」
短く息を吸い込んでから、和彦は思いきって用件を切り出した。
「――そろそろ、戻ろうと思っている。あっ……、あの、マンションの部屋のほうに」
賢吾は表情を変えなかったが、両目にいくらか鋭い光が宿ったように見えたのは、気のせいではないだろう。
賢吾の部屋で、二人で過ごすことに馴染み始めたところで、和彦がこんなことを言い出し、怒らせてしまったのだろうかと思ったが、次の賢吾の発言を聞き、そうではないと知る。
「鷹津にたっぷり慰めてもらったあとだと、俺と一緒に過ごすのが心苦しくなってきたか?」
和彦は咄嗟に返事ができなかった。このとき胸を過ぎったのは、賢吾に対する後ろめたさと恐怖だ。
目に見えて和彦の顔色が変わったのだろう。賢吾は軽く息を吐き出すと、自分の傍らを手で示す。その動作の意味を察し、和彦はのろのろと賢吾の隣へと移動した。
賢吾の片手が伸ばされ、ビクリと身を竦める。もちろん、賢吾が暴力を振るうはずもなく、優しく髪を撫でられた和彦は、視線を伏せつつ問いかけた。
「怒ったのか?」
「先に質問したのは、俺だと思うが」
賢吾の口調は柔らかだが、ちらりと視線を上げた和彦は、寒気を感じた。賢吾は、無表情だった。こういうときの賢吾は、和彦の心の奥底まで容赦なく浚い、本音を引き出そうとしてくる。
和彦と男たちの奔放な関係に賢吾が寛容なのは、いざというとき、和彦の心の繊細な部分にすら切り込めると自信があるためかもしれない。そう思いながら、和彦は気持ちを吐露するしかなかった。この男には逆らえない。
「……鷹津は関係ない。もう半月以上も本宅で世話になって、さすがに甘えすぎだと思ったんだ。精神的には、とっくに落ち着いていたし……」
「落ち着いたといいながら、この二日ほど様子がおかしかっただろ。難しい顔で考え込んでいたかと思ったら、魂がどこかに飛んでいっちまったようにぼけっとしたり。そういうのは、落ち着いたとは言わねーんだ」
大蛇の目は、よく見ている。おそらく、和彦が咄嗟についたウソも見抜いているだろう。
髪に触れる賢吾の手を取り、おそるおそる押し返す。
「医者としての自分について、考えさせられていたんだ。これは、自分自身の気持ちの問題で、自分で整理をつけるしかないことだ。――大丈夫。組や総和会に迷惑はかけない」
「患者が死んだことは聞いている。処置を受ける前に、すでに手の施しようがない状態だったことも。おそらく、病院に運び込んだところで、結果は変わらなかっただろう。先生も、そのことは理解しているはずだ。だが、平然としていられるほど、経験は積んでいない。そのうえ今身を置いている環境は、先生の苦悩を汲み取って、フォローしてくれる人間はいないしな」
「……だから、あんたには愚痴すらこぼしていないだろ」
「それはそれで、困る」
思いがけず賢吾に強い力で手首を掴まれ、和彦は目を見開く。
「何……」
「最悪のタイミングで、先生を鷹津に渡しちまったな。ただでさえ先生に骨抜きになっている奴が、精神的に弱った先生が懐に潜り込んできたら――どうなるだろうな?」
和彦の脳裏を過ぎったのは、鷹津と〈愛し合った〉夜のことだった。あのとき確かに、和彦は鷹津に精神的に寄りかかり、鷹津は、そんな和彦に優しさを示してくれた。
「別に、どうもならない……。鷹津は鷹津で、相変わらずだった」
和彦の言葉を、賢吾は端から信じていなかった。和彦の指をやけに優しい手つきで撫でながら、こんなことを言い始めたのだ。
「どうやら俺が考えていた以上に、鷹津は優秀な番犬だったようだ。番犬とは言っても、もとは狂犬だ。敵味方かまわず、牙を見せて唸ってくれれば十分だと思っていた。だが、咥え込んだ男を骨抜きにする性質の悪いオンナは、そんな狂犬を手なずけて、忠実な番犬にしちまった」
「手なずけるなんて……」
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