血と束縛と

北川とも

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第30話

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 ここで和彦の脳裏に、今朝の鷹津との電話の内容が蘇る。同時に、電話の最中の自分の反応も。
 一人でうろたえた和彦は、慌てて思考を切り替える。あの男のことは、今は関係ないはずだ。
 気分を変えるため、紅茶でも淹れてこようかと立ち上がろうとしたとき、デスクの引き出しに入れてある携帯電話が鳴った。一瞬、鷹津からかと思ったが、それはありえないことだと、次の瞬間には思い直す。
 実際、電話は長嶺組からだった。和彦がクリニックに詰めている時間帯に電話がかかってくるとなると、用件は限られている。
 和彦の中に緊張が走る。診察室を出た和彦は廊下を見渡し、スタッフたちがミーティング室にまだ集まっていることを確認してから、素早く仮眠室に移動する。
 ドアを閉めると同時に電話に出ると、緊迫した空気が即座に伝わってきた。
「何かあったのか?」
 和彦の問いかけに、組員がわずかに口ごもった気配がした。
『……お仕事中にすみません。先生に連絡していいものか、迷ったのですが――』
「今日は夕方まで予約が入っていないから、大丈夫だ。それで?」
『実はある組から、緊急で診てもらいたい患者がいると連絡が入りました。最初は、別の医者に診せたそうなのですが、ひどい状態らしくて……』
「どうひどいのか、実際に診てみないとわからないが、もしかして、ぼくの手に余る状態かもしれないな」
 これまでも、具体的な症状がわからないまま現場に連れて行かれ、想像以上に凄惨な患者の姿を目の当たりにしたことはあった。そのたびに、動揺したあと、逃げ場のない状況で覚悟を決めてきた。これが、自分がこの世界で与えられた義務なのだからと。それと、おこがましいが、医者としての使命感から。
「とにかく行ってみよう。もし、患者の治療に手間取るようなら、こちらの予約を断るしかない。状況を見て判断するから、いつものように準備をしておいてくれ。今から――五分後に下りる」
 和彦は仮眠室を出ると、その足でミーティング室を覗く。廊下の短い距離を歩く間に、適当な言い訳は考えた。
 家族が体調を崩して病院に運ばれたため、付き添ってくる、というものだ。自分が家族を言い訳に使うというのも妙な話だと思いはしたものの、こだわっている時間はない。
 和彦は、スタッフたちに見送られてクリニックを出る。小走りでビルから離れると、タイミングを見計らっていた長嶺組の車がスッと傍らで停まり、素早く周囲を見回してから乗り込んだ。
 組員に頼んで、現在患者を見ている者と連絡を取ってもらい、和彦が直接電話に出て、様子を説明してもらう。
 あえて病院に行かないということは、状況は限られている。説明を受けながら和彦は、自分の表情がどんどん厳しくなっていくのがわかった。
 車で一時間近く走って到着したのは、古びたマンションだった。もともとの住人が少ないのか、それとも平日の昼間ということで仕事に出ているのか、不気味なほど静まり返っている。付近は空き地が多く、往来を歩く人の姿もないため、緊迫した顔の男たちが慌しくうろついたところで、見咎められることはなさそうだ。
 組員に伴われてエレベーターで三階へと上がる。一室だけドアが開いたままとなっており、男が一人立っていた。こちらを見るなり、暗い表情のまま頭を下げた。その光景を見た途端、和彦は嫌な気分に陥った。嫌な予感はさきほどから感じていた。それが裏づけられたという意味で、嫌な気分になったのだ。
 部屋に上がった和彦はすぐに手を消毒して、手術の準備を整えてから奥の部屋へと足を踏み入れる。むせるほどの血の匂いが漂っており、ビニールが敷き詰められた床の上には、真っ赤に染まったガーゼがいくつも落ちていた。
 手術台の上に男が横たわっているが、血の鮮烈な赤さとは対照的に、顔色は蒼白を通り越し、紙のように白かった。驚いたことに、バイタルモニターに繋がれてもおらず、まさに放置されているような状態だ。
 その理由を、和彦はすぐに察した。男に声をかけながら脈を取ってみる。意識はなく、脈拍も弱々しい。腰に当てられたガーゼを取り除いてから、小さく声を洩らす。刺傷だと聞かされてはいたが、治療した痕跡は見られなかった。
「……ぼくの前にも、医者が来ていたんじゃないのか……?」
 和彦が鋭い視線を向けると、部屋の外に立った男が淡々とした表情で応じる。
「自分では治療は無理だと言っていました。傷口に触って、これ以上出血をさせるほうが危険だと」
「だからといって、輸血もしなかったのかっ? 明らかに、ショック状態の症状が出ているじゃないかっ」
 患者はすでに、体から大量の血液を失っており、瀕死となっている。和彦の前に来た医者が『無理』という言葉を使ったのは、手の施しようがないという意味も含んでいるのだろう。
「――……傷の手当ては後だ。血液の循環を安定させることを優先する……」
 自分には『無理』という言葉は使えない。その意識から、和彦がようやく絞り出したのは、この指示だった。

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