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第30話
(8)
しおりを挟む水が撒かれ、葉についた水滴がきらめいている中庭を、和彦はうっとりと眺める。
朝、眠気を完全に払拭できた状態で、出勤するまでのわずかな時間をこうやって過ごせるということは、肉体的にも精神的にも安定している証拠だと思っている。
もう、自分は大丈夫だ――。
確認するように、胸の内で呟く。英俊と会うと決めてから、会ってから、日常に影が差したようで、不安で落ち着かない日々を過ごしていたが、その感覚もずいぶん薄らいだ。和彦にとっての日常が戻ってきたのだ。
長嶺の本宅に滞在し、誰彼となく気遣ってくれる生活は、ある種の癒しだ。ささくれ立った気持ちが和らぐ。だが、癒しも過ぎれば、甘えが出てきそうで、それが和彦は少し怖い。いくらでも甘えればいいだろうと、ここで暮らしている長嶺の男たちは言うだろうが。
不意に、ジャケットのポケットの中で携帯電話が鳴った。こんな時間に誰だろうかと思いながら携帯電話を取り出した和彦は、表示された名を見て、微妙な表情を浮かべる。
『――いつまで俺を放っておく気だ』
電話に出た途端、皮肉っぽい口調で言われた。和彦はさりげなく周囲を見回してから応じる。
「朝からどうして、あんたの声を聞かないといけないんだ……」
『それは、俺が真っ当な勤め人だからだ。一応、お前もな。連絡を取り合うには、一番いい時間帯だと思うぜ』
和彦は露骨にため息をついたが、鷹津は意に介した様子もなく、朝は忙しいとばかりにすぐに本題を切り出した。
『で、俺に餌を食わせてくれる気はあるのか?』
とぼける要領のよさがあるはずもなく、和彦は動揺しながら応じる。
「朝から話すようなことかっ」
『ほお、感心だな。覚えていたか。俺がお前のために働いたことを。役に立っただろ』
「……あいにく、あんたが教えてくれた情報を、兄さんに直接ぶつけることはできなかった。ぼくの背後に誰がいるのか、探られるのも嫌だったし。だけど、事情を少しでも知っておいたおかげで、兄さんの話に対して警戒できた」
話しながら、英俊と会ったときのことを鷹津に話すのは、今が初めてであることに気づく。和彦としては、こちらからわざわざ報告するのはどうなのだろうかと考えていたのだが、鷹津であれば、知りたければもっと早くに接触してきたはずだ。
ここで和彦は、ふとある可能性に思い至る。他の男たちがそうであったように、鷹津もまた和彦を気遣い、時間を置いていたのではないか、と。それとも、賢吾から何かしら釘を刺されていた可能性もある。鷹津に尋ねてみたいが、素直に話してくれるとも思えない。
『おい、聞いているか。まだベッドの中か?』
「起きているっ」
『――今夜はどうだ』
唐突に言われ、和彦は面食らう。胸の鼓動が速くなり、顔が熱くなってきた。自分のこの反応の意味をあえて深く考えず、和彦は低く抑えた声で答えた。
「別に……、今夜は予定はない」
『そりゃあ、よかった。無理だと言われたら、クリニックに乗り込むつもりだったんだがな』
「刑事が営業妨害をするつもりだったのか」
『まさか。だから今、お前の予定を聞いてやっただろ。お前が無事だったことを祝って、今夜は長嶺組に、いいホテルを予約させてやるか』
交渉は自分でやってくれと言い放ち、和彦は電話を切ろうとしたが、鷹津に呼ばれて動きを止める。
『お前が兄貴に連れ去られるんじゃないかと、少し気になっていた。なんといっても、ヤクザにつけ込まれるような、間が抜けている奴だからな』
鷹津のあまりの物言いに和彦は、腹が立つよりも笑ってしまう。確かにその通りだと思ったからだ。
「ああ。刑事にまでつけ込まれているぐらいだしな」
和彦の耳に届いたのは、鷹津の抑えた笑い声だった。
昨日は、朝から晩までカウンセリングや施術で多忙だったのだが、今日は打って変わって、余裕があった。暇、という一言で表現できるのかもしれないが、そうはいっても、患者の予約が入っていないからといっても、やることがないわけではない。
看護師を含めたスタッフたちは、来月開催されるセミナーに出席するため、打ち合わせを行っている。本来であれば和彦も、美容外科医としての見聞を広げるために、展示会や海外出張に出かけたいのだが、現状では難しい。だからこそ、クリニックにいても入手できる情報には、丹念に目を通していた。
今も、会員となっている学会から送られてきた資料を、黙々と読んでいる。あまりに患者が来ないのは困りものだが、たまにはこういう日があってもいいと、密かに和彦は思っていた。
今朝の目覚めのよさに始まり、クリニックの落ち着いた空気といい、なんとなく今日は気分がよかった。英俊と会ってから、ようやく平穏さを堪能できている気がするのだ。
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