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第30話
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「あの家が、ぼくを必要としていると知ったところで、少しも嬉しくないんだ。きっともう、ぼくとあの家が歩み寄ることはできない。それが確認できただけでも、会ってよかったと思う。間に入った里見さんには、申し訳ないけど」
座卓に置いた文庫本の表紙を、手慰みに撫でる。そうしながら和彦の脳裏に蘇るのは、英俊と会ったときの光景だ。
思い返すたびに息苦しい感覚に襲われていたが、自分を駆り立てるように仕事をこなし、すっかり慣れ親しんだ男たちと顔を合わせていくうちに、その感覚も薄れつつある。だから、里見に連絡を取ることにしたのだ。今回は、悲壮な覚悟は必要としなかった。
「兄さんに、言いたいことは言えたと思う。そのことを、あの人たちは納得しないだろうけど、ぼくはこれ以上話をするつもりはない。また里見さんに何か頼んできたときは、そう伝えてもらえるかな。一生連絡を取らない――という決心まではしていないけど、当分、話をするつもりはない」
電話の向こうから聞こえてきたのは、深いため息だった。一瞬、里見を失望させただろうかと身構えた和彦だが、次に耳に届いたのは、鼓膜をくすぐるような笑い声だった。
「……里見さん?」
『ごめん。最初の頃は、君は誰かに脅されていると思っていたんだ。だけど直接君に会って、英俊くんからも話を聞いて、今の君の言葉を聞いて、ようやく受け入れるしかないと思った。――君は、今いる場所で必要とされて、それ以上に大事にされているんだって』
里見が想像しているのは、穏やかで優しくて、美しい環境なのだろうと思うと、現実とのギャップに和彦もつい声を洩らして笑ってしまう。だが、男たちの情や、複雑な事情に雁字搦めになりながらも、和彦にとってこの世界が心地いいのは間違いない。
「そう……、単純なものじゃないけどね」
ほろ苦い気持ちを噛み締めながら和彦が呟いたとき、廊下を歩く足音が聞こえてくる。
「それじゃあ、もう切るね」
『和彦くんっ』
携帯電話を耳元から離そうとしたとき、突然里見が大きな声を発する。
「何?」
『この電話を切ったあと、携帯の番号を変えたりしないでくれ。英俊くんに番号を知られて、君は嫌だろうけど、今の君とわたしを繋いでいるのは、この番号しかないんだ。だから――』
和彦は外の様子をうかがいながら、早口で告げた。
「考えておくよ」
電話を切ったのと、障子が開くのは同時だった。和彦は落ち着いて携帯電話を置くと、部屋に入ってきた人物に声をかける。
「――寝る準備は万端って感じだな」
ハーフパンツにTシャツという、今すぐにでもベッドに飛び込めそうな格好をした千尋は、和彦の言葉を受けてニッと笑う。一方の和彦も、本宅で寛ぐときの定番となっている浴衣姿だ。里見との電話を終えたら、さっさと横になって文庫本の続きを読もうと思っていたのだ。
今夜は、この部屋の主が外泊になるかもしれないということで、一人でゆっくりと過ごせると思っていたが――。
障子を閉めた千尋が、いそいそと和彦の側にやってくる。人懐こい犬っころを思わせる行動に、思わず唇を緩めた和彦は、千尋の生乾きの髪を手荒く撫でてやる。
「どうしたんだ、ここまでやってきて」
和彦の問いかけに、千尋が唇を尖らせる。最近ますます、長嶺組の跡目としての責任感に目覚めてきたのか、風格らしきものが漂い始めた千尋だが、和彦の前では相変わらずだ。年相応の青年――よりもさらに子供っぽい言動を取る。
「だって先生、クリニックから戻ってきても、メシ食って、風呂入ったら、さっさとオヤジの部屋にこもるだろ。今晩なんて、オヤジはいないのに、それでもこの部屋がいいんだ」
「それは……、お前の父親が、ここで寝泊まりしろって言い出したから……。ぼくが嫌だと言ったところで、聞き入れる男じゃないだろ」
「でも、嫌なんて言うつもりなかったんでしょ?」
千尋から、恨みがましい目でじっと見つめられ、和彦は露骨な困り顔で返す。
当分、和彦を一人にしておけないからと、本宅からクリニックに通うよう、賢吾から言われた。いつになく人恋しさを感じていた和彦は、それに素直に従ったのだが、賢吾の要求はそれだけでは済まなかった。
いつものように客間を使うつもりだったが、和彦が案内されたのは、賢吾の部屋だったのだ。仕事を終えて本宅に戻ると、賢吾の部屋で食事を済ませ、寛ぎ、布団を並べて休む――という生活を、もう一週間近く送っている。
賢吾なりに、和彦の精神状態を慮ってのことだろうと理解はしているが、当然のようにこの部屋で二人で過ごしていると、自分と賢吾の関係が変化したと強く実感できる。強要されているのではなく、自分は望んで、賢吾の側にいるのだと。
座卓に置いた文庫本の表紙を、手慰みに撫でる。そうしながら和彦の脳裏に蘇るのは、英俊と会ったときの光景だ。
思い返すたびに息苦しい感覚に襲われていたが、自分を駆り立てるように仕事をこなし、すっかり慣れ親しんだ男たちと顔を合わせていくうちに、その感覚も薄れつつある。だから、里見に連絡を取ることにしたのだ。今回は、悲壮な覚悟は必要としなかった。
「兄さんに、言いたいことは言えたと思う。そのことを、あの人たちは納得しないだろうけど、ぼくはこれ以上話をするつもりはない。また里見さんに何か頼んできたときは、そう伝えてもらえるかな。一生連絡を取らない――という決心まではしていないけど、当分、話をするつもりはない」
電話の向こうから聞こえてきたのは、深いため息だった。一瞬、里見を失望させただろうかと身構えた和彦だが、次に耳に届いたのは、鼓膜をくすぐるような笑い声だった。
「……里見さん?」
『ごめん。最初の頃は、君は誰かに脅されていると思っていたんだ。だけど直接君に会って、英俊くんからも話を聞いて、今の君の言葉を聞いて、ようやく受け入れるしかないと思った。――君は、今いる場所で必要とされて、それ以上に大事にされているんだって』
里見が想像しているのは、穏やかで優しくて、美しい環境なのだろうと思うと、現実とのギャップに和彦もつい声を洩らして笑ってしまう。だが、男たちの情や、複雑な事情に雁字搦めになりながらも、和彦にとってこの世界が心地いいのは間違いない。
「そう……、単純なものじゃないけどね」
ほろ苦い気持ちを噛み締めながら和彦が呟いたとき、廊下を歩く足音が聞こえてくる。
「それじゃあ、もう切るね」
『和彦くんっ』
携帯電話を耳元から離そうとしたとき、突然里見が大きな声を発する。
「何?」
『この電話を切ったあと、携帯の番号を変えたりしないでくれ。英俊くんに番号を知られて、君は嫌だろうけど、今の君とわたしを繋いでいるのは、この番号しかないんだ。だから――』
和彦は外の様子をうかがいながら、早口で告げた。
「考えておくよ」
電話を切ったのと、障子が開くのは同時だった。和彦は落ち着いて携帯電話を置くと、部屋に入ってきた人物に声をかける。
「――寝る準備は万端って感じだな」
ハーフパンツにTシャツという、今すぐにでもベッドに飛び込めそうな格好をした千尋は、和彦の言葉を受けてニッと笑う。一方の和彦も、本宅で寛ぐときの定番となっている浴衣姿だ。里見との電話を終えたら、さっさと横になって文庫本の続きを読もうと思っていたのだ。
今夜は、この部屋の主が外泊になるかもしれないということで、一人でゆっくりと過ごせると思っていたが――。
障子を閉めた千尋が、いそいそと和彦の側にやってくる。人懐こい犬っころを思わせる行動に、思わず唇を緩めた和彦は、千尋の生乾きの髪を手荒く撫でてやる。
「どうしたんだ、ここまでやってきて」
和彦の問いかけに、千尋が唇を尖らせる。最近ますます、長嶺組の跡目としての責任感に目覚めてきたのか、風格らしきものが漂い始めた千尋だが、和彦の前では相変わらずだ。年相応の青年――よりもさらに子供っぽい言動を取る。
「だって先生、クリニックから戻ってきても、メシ食って、風呂入ったら、さっさとオヤジの部屋にこもるだろ。今晩なんて、オヤジはいないのに、それでもこの部屋がいいんだ」
「それは……、お前の父親が、ここで寝泊まりしろって言い出したから……。ぼくが嫌だと言ったところで、聞き入れる男じゃないだろ」
「でも、嫌なんて言うつもりなかったんでしょ?」
千尋から、恨みがましい目でじっと見つめられ、和彦は露骨な困り顔で返す。
当分、和彦を一人にしておけないからと、本宅からクリニックに通うよう、賢吾から言われた。いつになく人恋しさを感じていた和彦は、それに素直に従ったのだが、賢吾の要求はそれだけでは済まなかった。
いつものように客間を使うつもりだったが、和彦が案内されたのは、賢吾の部屋だったのだ。仕事を終えて本宅に戻ると、賢吾の部屋で食事を済ませ、寛ぎ、布団を並べて休む――という生活を、もう一週間近く送っている。
賢吾なりに、和彦の精神状態を慮ってのことだろうと理解はしているが、当然のようにこの部屋で二人で過ごしていると、自分と賢吾の関係が変化したと強く実感できる。強要されているのではなく、自分は望んで、賢吾の側にいるのだと。
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