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第29話
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それに、賢吾がこちらの状況をある程度把握している様子なので、急いで連絡する必要性はなさそうだ。しかも、何日も滞在するわけではないのだ。
和彦はそう自分に言い聞かせ、気持ちを落ち着かせる。こうして中嶋を寄越してくれた効果は、絶大だというわけだ。
ボストンバッグを足元に置いて、和彦は頭を下げる。
「こちらの事情に巻き込んで、面倒をかけてすまなかった。それと……ありがとう」
「俺としては下心たっぷりなので、先生に頭を下げられると、心苦しいんですが」
「それでもいいよ。ここにぼくがいることを、君だけじゃなく、組長も把握していると知って、安心した」
中嶋がふいに腰を屈めて、顔を覗き込んでくる。何事かと和彦は目を丸くした。
「……なんだ?」
「いえ、明かりのせいかとも思ったんですが、先生、顔色が悪いですね」
「別に体調が悪いわけじゃないが、今日は疲れた……」
だからといってすぐにまた横になる気にはなれない。昼間は雨に濡れ、うたた寝をしている最中には汗をかいた体は気持ち悪い。それに、今日は朝からほとんど何も食べていないので、さすがに胃に何か入れておきたかった。
和彦が腹に手をやると、察したように中嶋が提案してくれた。
「来る途中で、弁当を買ってきたんですよ。どうせここだと、インスタントか、冷凍食品を温めるだけかと思ったんで。俺の分も買ったんで、ここで食べて帰っていいですか?」
和彦が頷くと、持ってきますと言い置いて中嶋が部屋を出ていく。その後ろ姿を見送った和彦は改めて、中嶋を寄越してくれた賢吾の気遣いを、心憎く思っていた。中嶋特有の配慮は、今はとにかく心地よい。
久しぶりに会った兄より、下心があると言い切るヤクザに対して安心感を覚えるとは――。
皮肉っぽくそう考えた和彦は、口元に淡い苦笑を刻んだ。
中嶋が帰ったあとの隠れ家は、まるで建物全体が息を潜めているかのように静かだった。和彦以外に二人の男が滞在しているのだが、そもそも建物自体が広いため、少数の人間が動いたところで物音も聞こえないのだ。
かつては何人もの男たちが同時に入っていたであろう風呂も、一人で入るのが申し訳なくなるような広さで、なんだか不気味だ。
タイル張りの湯船に肩まで浸かりながら和彦は、ゆっくりと目を閉じる。風が強いのか、すりガラスの向こうから木々のざわつく音が微かに聞こえてくる。あとは浴場の天井から、水滴が落ちてくる音だけだ。
やはりここは、日常から切り離されたような場所だ。そう思った途端、急に心細さに襲われた和彦は、急いで風呂から上がった。
Tシャツとスウェットパンツを着込んで脱衣所を出ると、火照った肌にひんやりとした空気が触れた。日が完全に落ちてしまうと、山の気温は急激に下がってきたようだ。
和彦は部屋に戻り、ボストンバッグの中を探る。着替えを数着分入れてもらってはいるが、パーカーとワイシャツの替え以外に長袖はなく、仕方なくクローゼットを開ける。説明を受けた通り、クリーニング屋のタグをつけたままの服がずらりと並んでいた。
トレーナーを見つけて手を伸ばそうとして、その隣に並んだものに気づく。和彦は思わず破顔した。
「ここでの生活を堪能してたのかな……」
そんな独り言を洩らして、ハンガーにかかったガウンを手に取る。柔らかな肌触りに満足すると、これを着込んで眠ることにする。
いつもより早い時間にベッドに入ることになるが、とにかく今夜は横になる以外、何もしたくなかった。何も考えたくないということもある。
安定剤を飲んでから部屋の電気を消すと、あまりに真っ暗なのも嫌で、テレビをつけたまま音だけを消す。
布団の中で身じろぎ、心地のいいポジションを見つけると、嵐のようだった一日から慌しく連れ去ろうとするかのように、眠気が和彦の意識を覆ってしまう。
本当は安定剤を飲むまでもなく、今夜は容易に眠りにつけたのかもしれない。そんなことを頭の片隅でぼんやりと考えているうちに、一瞬だけ深い眠りに落ちた気がする。もしかすると数十分、数時間か。
曖昧な感覚の心地よさに浸っていると、雑音に鼓膜を刺激される。テレビの音かと思った次の瞬間に和彦は、自分で音を消したことを思い出し、大半を眠気に搦め捕られた思考を緩慢に動かす。
ようやく雨音だと気づき、疑問が解消したことで安堵感に包まれる。
異変は唐突に訪れた――。
横向きになって眠っていた和彦は、背後から、逞しい感触に抱き竦められる。なんの疑いもなく、自分は夢を見ているのだと思った。
抱き締められる心地よさに、胸の奥が疼く。だから、体をまさぐられても、嬉々として受け入れていた。
和彦はそう自分に言い聞かせ、気持ちを落ち着かせる。こうして中嶋を寄越してくれた効果は、絶大だというわけだ。
ボストンバッグを足元に置いて、和彦は頭を下げる。
「こちらの事情に巻き込んで、面倒をかけてすまなかった。それと……ありがとう」
「俺としては下心たっぷりなので、先生に頭を下げられると、心苦しいんですが」
「それでもいいよ。ここにぼくがいることを、君だけじゃなく、組長も把握していると知って、安心した」
中嶋がふいに腰を屈めて、顔を覗き込んでくる。何事かと和彦は目を丸くした。
「……なんだ?」
「いえ、明かりのせいかとも思ったんですが、先生、顔色が悪いですね」
「別に体調が悪いわけじゃないが、今日は疲れた……」
だからといってすぐにまた横になる気にはなれない。昼間は雨に濡れ、うたた寝をしている最中には汗をかいた体は気持ち悪い。それに、今日は朝からほとんど何も食べていないので、さすがに胃に何か入れておきたかった。
和彦が腹に手をやると、察したように中嶋が提案してくれた。
「来る途中で、弁当を買ってきたんですよ。どうせここだと、インスタントか、冷凍食品を温めるだけかと思ったんで。俺の分も買ったんで、ここで食べて帰っていいですか?」
和彦が頷くと、持ってきますと言い置いて中嶋が部屋を出ていく。その後ろ姿を見送った和彦は改めて、中嶋を寄越してくれた賢吾の気遣いを、心憎く思っていた。中嶋特有の配慮は、今はとにかく心地よい。
久しぶりに会った兄より、下心があると言い切るヤクザに対して安心感を覚えるとは――。
皮肉っぽくそう考えた和彦は、口元に淡い苦笑を刻んだ。
中嶋が帰ったあとの隠れ家は、まるで建物全体が息を潜めているかのように静かだった。和彦以外に二人の男が滞在しているのだが、そもそも建物自体が広いため、少数の人間が動いたところで物音も聞こえないのだ。
かつては何人もの男たちが同時に入っていたであろう風呂も、一人で入るのが申し訳なくなるような広さで、なんだか不気味だ。
タイル張りの湯船に肩まで浸かりながら和彦は、ゆっくりと目を閉じる。風が強いのか、すりガラスの向こうから木々のざわつく音が微かに聞こえてくる。あとは浴場の天井から、水滴が落ちてくる音だけだ。
やはりここは、日常から切り離されたような場所だ。そう思った途端、急に心細さに襲われた和彦は、急いで風呂から上がった。
Tシャツとスウェットパンツを着込んで脱衣所を出ると、火照った肌にひんやりとした空気が触れた。日が完全に落ちてしまうと、山の気温は急激に下がってきたようだ。
和彦は部屋に戻り、ボストンバッグの中を探る。着替えを数着分入れてもらってはいるが、パーカーとワイシャツの替え以外に長袖はなく、仕方なくクローゼットを開ける。説明を受けた通り、クリーニング屋のタグをつけたままの服がずらりと並んでいた。
トレーナーを見つけて手を伸ばそうとして、その隣に並んだものに気づく。和彦は思わず破顔した。
「ここでの生活を堪能してたのかな……」
そんな独り言を洩らして、ハンガーにかかったガウンを手に取る。柔らかな肌触りに満足すると、これを着込んで眠ることにする。
いつもより早い時間にベッドに入ることになるが、とにかく今夜は横になる以外、何もしたくなかった。何も考えたくないということもある。
安定剤を飲んでから部屋の電気を消すと、あまりに真っ暗なのも嫌で、テレビをつけたまま音だけを消す。
布団の中で身じろぎ、心地のいいポジションを見つけると、嵐のようだった一日から慌しく連れ去ろうとするかのように、眠気が和彦の意識を覆ってしまう。
本当は安定剤を飲むまでもなく、今夜は容易に眠りにつけたのかもしれない。そんなことを頭の片隅でぼんやりと考えているうちに、一瞬だけ深い眠りに落ちた気がする。もしかすると数十分、数時間か。
曖昧な感覚の心地よさに浸っていると、雑音に鼓膜を刺激される。テレビの音かと思った次の瞬間に和彦は、自分で音を消したことを思い出し、大半を眠気に搦め捕られた思考を緩慢に動かす。
ようやく雨音だと気づき、疑問が解消したことで安堵感に包まれる。
異変は唐突に訪れた――。
横向きになって眠っていた和彦は、背後から、逞しい感触に抱き竦められる。なんの疑いもなく、自分は夢を見ているのだと思った。
抱き締められる心地よさに、胸の奥が疼く。だから、体をまさぐられても、嬉々として受け入れていた。
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